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記事一覧

波の記憶(写真・時本景亮さん)

はじめて女の裸足が貝殻を踏む音を知った。その新鮮さに、私の意識の波はくぐもって、本物の波の呼吸をすっかり忘れた。敏活だった、お互いが。そして、どこかで、その海の知性を愛する者の気配が匂い立つ。駆けめぐる。さめやらぬほどに。白牡丹の花びらのような飛沫の一つ一つに、空の晴れ間が映り込んでいて。私たちのくるぶしを掴まえる、暗い、うねりの予兆をはらんでいる。やがてそれは来た。目覚めた場所は夏の午後の駅の前...

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After Memories ――海へ――(写真・時本景亮さん)

彼女は一度も海を見たことがなかった。   *日曜日の午後、三十分ほどバスにゆられて白兎海岸へ。いつものように、あたりまえのように海はそこにあって、波はえんえんとあてのないしぐさをくりかえす。夏休みの絵日記には決まって青いクレヨンを使ったと私が言うと、彼女は口もとに微笑をたたえて、それからそっと、目をつむった。――わたしたち、まだ何も名付けずにいましょうね。(波打ち際では、ほほえみあうことも、ましてこ...

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After Memories ――森へ――(写真・時本景亮さん)

風のなかでその鳥は悲しみを織っている、まるで「おはよう」といっているみたいに。   *わたしたちの歩行はいつも決まって晴れやかで、すこし残った雪のかたまりさえきらきら輝いていて、おたがいがおたがいにたえず見て見ぬふりをつづけながらも、あなたは、ときどき、森に住みたいといってわたしを困らせた。――あなたには聴こえるかしら、その鳥のさえずりが。(日差しのまぶしさや木漏れ日のうつくしさ、木の幹の空洞や葉擦...

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After Memories ――予告――(写真・時本景亮さん)

三月でした。決して秘密を明かそうとしない庭のかたすみでまだ二羽の小鳥が凍えていました。はばたきも、さえずりも、あいづちさえもなく。まばたきほどの光の束をたずさえて、地下鉄の階段で偶然あなたを見かけたとき、ひさしぶりだね、全然変わっていないね。いつかふたり並んで歩いた帰り道のつづきを、きっとあのとき夢見たのだと思います。(……書物を閉じるように、この庭も閉じなければならないのでしょうか。天体の運行にし...

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私の線(写真・時本景亮さん)

産まれたときの最初のひと声で線は引かれる。線の短さに、あやうさに、おびえてそれから幾度も声を上げるがもう遅い。線をのばすことの、その無意味さを知った上でかたちづくられる、にぶい冬のはじまり。柩のようなあるいは白髪のような場所からじっと私を見つめている、死にそこなったわたしが、ときどき、わらう。記憶には残らない何かが、枯れ葉や木の実、不眠症の太陽をくすぐる。市井の産院の、無数の耳に方位を伝えるために...

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