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八月(Short Version)

 毎朝、なじみつつある闇をむりやりひっぱがすようにして目をさます。しろくまぶしい窓の外からの日ざしに目をほそめる。多少のどが渇いているが、からだは汗をかいていない。電線のうえのカラスが、ふいにおもいがけないほどするどい声をはなつ。セミもじょじょに鳴きはじめている。だてメガネは、まるで前世紀の遺物のように机のかたすみにころがっている。みずいろのカーテンがみずいろの風にくすぐられ、いまにもみずいろの便箋になろうとしている、そんなみずいろの週末はどこまでもみずいろだった。
 ありもしない魚のまぶたをおもいえがきながら洗面所へ。水道の蛇口をひねり、コップに水をそそぎながらも、なんていえばいいのだろう、いつもここから逸れていく感覚がある。それはけっしてふかしぎなものではない、むしろあたりまえすぎるがゆえに見すごしてしまっているだけである。
 蛇口をいつもよりきつくしめる。これ以上、一滴もしたたりおちないように。
 冷蔵庫からミネラルウォーターをとりだしてがぶがぶと飲む。一瞬、視界をよぎったカラスのはばたきを、いったいどう語ればいいのか。語ることもまたさびしいものだと、がぶがぶ、がぶがぶと飲みながら考える。
「きみのかわりはいくらでもいる」、きょうも新聞の運勢欄は手きびしい。カラスがしつこく鳴いている。ゴミ集積場のゴミ袋をあさっているときは狂喜乱舞、生きることのしたたかさ、がめつさをぼくたち人間につきつけてくるが、なんとなく、ぼうっとしているときのあのまぬけな感じが笑いをさそう。なにかを悟っているようでもあるし、まったくなにも考えていない、じぶんがカラスであることさえも度外視しているようでもある(もちろん、カラスにとってじぶんはなにものであるかなどどうでもいいことかもしれないが)。道ばたでくちばしをぽかんとあけているすがたは、ほんとうにまぬけだ。むかしのひとはあれを見てカラスは阿呆だときめつけたのだろう。カラスは、ほんとうは記憶力がいいし狡猾である。
 Tシャツのうえに薄手の上着をはおり、ジーンズをはく。いくら暑くても肌を露出したくない。部屋をでて鍵をかける。ドロップ缶は尻ポケットへ。アパートの鉄階段で、さびたねじが、どうにでもしてくれ、というので、わかったよ、そのままほうっておくことにする。
 きっときのうの風のしわざだろう、ななめになった案山子をもとにもどしてやる。流線型ヘルメットをかぶった、一見して中国人女性だとわかる自転車集団とすれちがう。横断歩道のまえでおばあさんを背負うと、そのうちこのまちでもテロがおこるはずだとおどされた。
 鉄さびのにおい。蒸れた夏草のにおい。朝っぱらから空の青さばかりが目にしみる(なにもかもシュレッダーにかけてしまいたい)。
 ときどき、石を拾う。その固有の手ざわりのなつかしさを、なつかしむために。ひとそれぞれ、こんなふうに固有のなにかを――いたみやきしみを――かかえながら生きているのだ、なにもじぶんだけではないのだと、なんどもなんどもじぶんじしんにいいきかす。
 針金かとおもったら、ミミズだった。
 ふりかえれば、さらば。ばさら。ばらら。ばばら。
   *
 きょうもまた、このまちを歩いている。ふつうの速さで歌うように(あるいは、この、だれでもなさ、とひきかえに)。
 廃屋と化したガソリンスタンドに幽霊がいすわっている。
 ――ハイオク満タン!
 ふん、だれがわらってやるものか。むこうの店舗では納豆売りかしじみ売りが甲高い声をあげているが、そいつもまた、いないのだろう。
 このごろ、いる場所と、いない場所の区別がつかない。かろうじて、ありえた場所を、さまよっている。だから、滑稽なもの、とるにたらないものと目があってしまうわけだ。ジーンズの尻ポケットに手をもっていき、ドロップ缶の厚みをたしかめる。鍵も、ある。じぶんがなにをさがしているのか、さえもわすれてしまったときは、とりあえず「人生」だと信じこむ、ことにしている。
 いつのまにか歩道橋にさしかかっている。子どものころは高所も閉所も苦手だった。車の後部座席でなんども息苦しくなったし、乗り物が橋のうえを走るだけで――走るのを見ているだけで――からだがびくついたものだ。
 しかし、いまはどうだろう。口笛をふきながら通勤ラッシュの波を乗り越えることができるほど、すっかりずぶとくなってしまった。あるいはただたんに感覚が麻痺してしまっているだけかもしれない。
 いきかう車やひとのながれにすきまはなく、いつおぼれてもおかしくないのだということを、いつもと変わり映えのないしずけさのなかでひっそりとおもう。
 そんなふうになんどもなんども、くりかえしくりかえしひっそりとおもっては、ひっそりとわすれていく。ふいにだれかに胸のうちを明かそうとしても、その「胸のうち」とやらはいったいどこにあるのか。いや、そもそも「胸のうち」はからっぽなのだ、思考のしみすらものこっていない。
 風もそうだ、ふいたかとおもえばすぐにやんでしまう。ぼくたちになにかをのこし、と同時になにものこさない。
 どのまちも観光客の視線にさらされようとする。このまちも例外ではない、経済的利益とひきかえに従来の素朴さのおざなり。こうでもしなければ生きのこれないのだろうか。右を見ても左を見ても柵だ、歩道や車道にまで柵がある。のっぺらぼうの排外主義がはびこり、グローバリズムへの反発とナショナリズムのゆりもどしを盾に、依然としてヘイトスピーチは拡声器を手ばなそうとしない。顔のあるもの同士が、すれちがっているときは赤の他人であるのに、まちがった群れかたをすればたちまちおなじ文脈、おなじ思考にながれるのは、こうでもしなければ生きたここちがしないのか。
 道ゆくひとの勝手気ままな哄笑やしかめっ面、身ぶり手ぶりを摘むためにも、ときにはせつなく、ときにはなつかしく、ひかりの粒子を蹴散らしていきたい。
 四方八方、だてメガネが乱れ飛ぶ。怒声が飛びかい、脚本がまいあがる。
 だれかに足をふまれた。
 缶をふってドロップをひとつ、とりだす。むらさきいろ。をほおばる。もしかしたら好きなひとやおもいでをわすれるのも、こんなふうにあまったるいものかもしれない。おもいだすのをこばむほどのあまやかさを、あるいはいえなかったことやいわなかったことを、舌のうえでもてあそんでみる。この、だれでもなさ。
   *
 郵便局の角をまがると百年たっていて、知っているひとがひとりもいない。いそいで商店街にひきかえす。故郷というのは、はなれるか、うしなってみないとわからない。
 猫があくびをしている。口を開けたまま、どこまでものびやかにのびていく髭。世のなかにはずいぶんとおかしな猫もいるものだとおもうが、ひょっとしたら、というか、ひょっとしなくても、その猫にとってはおかしくもなんともないことなのかもしれない。でも、ぼくがいま見ているものは、なんなのだろう。
 つばめの巣を「螺髪」と呼べば、急に過去のひな鳥がさわぎだす、そんな海沿いの無人駅だった。ベンチに腰かけてまどろんでいる犬や、その犬にまとわりつくなにかしらの呪縛。さびついた自転車やビニール傘、風車の模型……砂にうもれた回転木馬の破片やメリーゴーラウンドの設計図……。
 わずかに天窓から射しこむ日ざしが、だれかのナイロンの旅行鞄を照らしている。トイレからもどってきた中肉中背のおじさんは、ぼくのすがたを見るなり、わらってキャラメルの箱をさしだした。
 ――食べない?
 二羽の蝶のゆくえにじっと目をこらす。さえずりの遠さ。
   *
 あまりなじみのない海岸で、あまりにもなじみのない波間を見つめている。波は、いくどもふりかえりふりかえりしながらやってくる。そしてそれは数千、数万の歯車の集合体のようでもある。岸で待つものにはまだるっこしい態度だ、どうすればそこに日付を書きこめるのか。風がふけば精神は影を脱ごうとするが、からだはそれをこばむ。
 ふいにおもいだす、きのうの雨のこととか。だれかの、だれでもない笑いにつられないよう、ぐっとくちびるをひきしめる。
 いつだって海は素朴なしぐさでページを繰る。なんでもないかのように、そしてなにごともなかったかのように、いともたやすく。そのたびに水平線の遠さは正気ではいられない。そのたびに水平線の遠さはわずかに身悶えしてしまうのだ。ゆらめく波間に浮かぶ無数の問いをどう生きればいいのだろうか。
 ――……海のなかにいくつもの波があるように、波のなかにももうひとつの海があるのだろうか? 沖のかなたからたえまなく生まれてくるものの正体を、はたしてぼくの目や耳でとらえることなどできるのだろうか? ほんとうの波でもない波に日付をあたえるのだとすれば、それはいったいいつだろう?
 大事なのは、そうだ、だれがそばにいてくれるかではなく、だれかがそばにいてくれること、そのことが大事なのだ。最愛のひとでなくてもいい、病院の看護師でもいいし、飲み屋で知りあった友人でもいい。とにかくだれかがこのぼくのそばにいて、このぼくの手をにぎってくれたまま、このぼくにはなしかけ、ほほえみかけてくれることが、大事なのだ。そういうことを、このごろ、よく考えるようになった。
 ――……それにしても、そろそろじぶんの生きかたを変えなければならない時期にきているのかもしれない。普段着で生きることよりも、まずはよそゆきの服を選ばなければならない。
 じぶんがじぶんでしかない、だからかなしい。
 目をこらす。空と海、そのふたつの境目がじわっとにじんでしまうまで(この波打ち際の波を描くために、まっしろい絵の具を買おう、とおもった)。
   *
 これも幽霊のしわざだろうか。窓の枠のぶぶんが落ちていた。目の高さまでかかげて、
 ――肖像。
 と、うそぶいてみる。わらえない。
 息をとめると肋骨から嗚咽がもれる。あいかわらず背中がこわばっている。
 突然、見知らぬ少年に呼びとめられる。
 ――ぼくのこと、わかる?
 きかれたので、わからない、とこたえると、少年はどこかへ立ち去ってしまった。
 きのうの雨がまつげを擦過する。一瞬、ねむってしまったのか。遠雷の気配を察した耳がうずいている。したまぶたが軽くひきつっている。
 影のうすい少年だったな、とおもった。つかみどころのない少年だった、とも。
 水平線はもうこれ以上、空の青さがながれおちないように、慎重に支えているようだが、ゆうがたになればたちまち黄金色が容赦なくなだれこんでくることだろう。
 だれでもいい、帰り道がおなじであればいっしょに帰りたい。
   *
 図書館で、本棚から何冊か本をひきぬくと、となりの本も、またそのとなりの本も、横にかたむく。いっせいにおおくの本がかたむけば、そのかたむいていったさきにある本のなかに、大量のことばが注入されたり移動したりしないかと、いささか気をもんでしまう。ひきぬいた個所からむかって左側の本のなかはすべて空白、いっぽうの、右側の数冊の本のなかにはぎっしりとことばがつめこまれていたら――しかもそのぶん、うんと重く厚くなっていたら――いったいぜんたいどうすればいいのか。
 医学用語辞典のページをぱらぱらめくっていると、「ヒポクラテス顔貌」ということばが目に飛びこんできた。かんたんにいってしまえば「死期が近い顔貌」という意味らしい。ふいに、ぼくが小学校三年のとき、心筋梗塞で亡くなった祖父の顔をおもいだす。
 ――あの案山子の利き手はどっちだろうね。
 祖父だったら、そくざに「両利きかなぁ」とかえしてくれるはずだ。どんなにくだらない質問であっても、眉ひとつ動かさない祖父が好きだった。
 風のなかでしずかに熟れていく果実がある。それは食べるためのものではなく、見つめるためのものにちがいない。あるいはそれはぼくの寿命をはかるものかもしれない。ぼくはその場にたちすくみ、じっと、その、ありもしない果実に目をこらす。ひとは死にたくないからこそ、死ぬしかないのだ、そうでなければ死があるはずがない。
 近所のちいさな公園で太極拳の練習をするひとたちがいた。なんていうか、徹底して現在進行形でありながらも、どこか身の丈をなつかしむ動作だった。遅延につぐ遅延。迂回につぐ迂回。木の葉もまた、迂回に迂回をかさねながら落ちるのか。さっきからずっと耳もとで気まぐれにこの季節のあらすじを書きかえるのは、二匹の蝶のしわざだろう。もしかしたらいま、しみひとつないかなしみにふれている、のかもしれない。
 ――夏は終わったよ。
 並木のすぐそばでそううそぶくと、セミの抜け殻は、
 ――へえー。
 といって、木からはがれ落ちてしまった。
 うしろをふりかえると、さっきの少年がいた。彼はもういちど、
 ――へえー。
 といった。
 ――タイミング、ばっちりだったよ。
 ぼくは感心して拍手を送る。
 ――へえー。
 地図のしわをのばすようにあくびをし、伸びをする。このまちが、やさしいあいさつをくりかえすまちだといい。
   *
 さびたみずいろの自転車が捨てられている。中学生のころ、公園の放置自転車をじぶんのものにしたことがあった。なんのおもいいれのない、赤の他人の自転車の乗りごこちは、かえってぼくの気分をなぐさめてくれた。こげばこぐほど、じぶんがじぶんでなくなっていくような、そんな解放感があった。そのままどこかへ、どこまでも走りつづけられそうだった。
 ――視力検査のとき、ほら、いくつもならんだ輪っかを見させられただろう。あの一部欠けた輪っかのことを、ランドルト環っていうんだ。
 男は女の目を直視しながら、いう。
 ――ふうん。きっと、ランドルトっていうひとが考案したんだね。
 女も男の目を直視しながら、こたえる。
 ――うん、ランドルト博士。それにしてもきみのまなざしはやわらかいね。
 こいびとたちのやわらかなまなざし。やわらかなくちびる。
 ふと映画館にはいり、ほとんどセリフのない映画を観賞した。ほとんどセリフがない、というのは、あるいはその映画にたいするぼくの関心のなさをあらわしているだけかもしれない。実際にはちゃんとセリフがあったのかもしれない。しかし、物語の内容さえも、いくらおもいだそうとしてもおもいだせない。ぜんぜん、まったく、これっぽっちもおもいだせなかった。
 映画館をでると当然のように日ざしがまぶしくて、いくつもの円だ、いくつもの円が、あたらしい。きっと、ランドルト博士からのゴーサインだ。
 缶をふってドロップをひとつ、とりだす。むらさきいろ。をほおばる。もしかしたら好きなひとやおもいでをわすれるのも、こんなふうにあまったるいものかもしれない。おもいだすのをこばむほどのあまやかさを、あるいはいえなかったことやいわなかったことを、舌のうえでもてあそんでみる。この、だれでもなさ。
 ジーンズのポケットに手をつっこむと、おかえり、というつめたい硬貨。それで缶コーヒーでも買えばいい。
   *
 帰宅すると、ベッドにははっきりと「にんげんのかたち」がのこっている。じぶんはかつてにんげんだったのか。だとすれば、いまはなんだろう?
 ぼくのぬけがらはといえば、部屋のかたすみに――まるでなんでもないもののように――落ちている。しぼんだ風船のようでもある。ぼくはそれをゴミ箱に捨てようとしたが、同時に、なんだかとてもいとしいもののようにもおもえた、おもってしまった。
 時折、椅子の座面に魚がはねるのを見る。のぞきこんでみても、しんとしている。もしかしたら、凪でも棲んでいるのだろうか。あるいはその魚は、凪そのものなのか。
 やむことのない波音を、食器のうえにおき、それを食した。ナイフとフォークで、ほんのすこしの哀切を、ていねいにおりこみながら、それを食した。
 やっぱり、わらえない。
   *
 図書館で借りた本のしおりひもが、本のまんなかでうつくしい「し」の字になってねむっているのを見ると、はっとする。まだだれもこの本を読んでいないのだ、ということよりも、しおりひもが完璧なまでの「し」の字になって、ページとページ、行と行をただよう空気を澄んだものにしていることに、なんていうか、畏怖の念を感じるのだ。おそるおそるしおりひもにふれると、はらりと落ちる。そしてそこにはしおりひもの眠りの名残がのこっている。紙の本には、ありとあらゆるところにからくりがあるので、なかなか、たのしい。
 どこからやってきたのか。ミミズが窓辺をはっている。ミミズは一回一回、ひと呼吸ひと呼吸、どこまでものびやかにのび、ゆるやかにちぢこまる。その際限のないひたむきさにひたっているうちに、じぶんさえも無脊椎の生きもののように感じられてくるからふしぎだ。
 もしかしたら、このミミズは、かつては本のしおりひもだったのではないか。神さまのいたずらかなにかで、ミミズになってしまったのではないか。あるいはみずからのぞんで、ミミズになりたかったのか。
 視線がことばをさがしあぐねている。読むというよりは、ただたんにことばとすれちがっているだけ。ページをめくりながらも、猛スピードで走りすぎるバイクの爆音。救急車のサイレンと、のらいぬのとおぼえ……しろく透きとおった維管束のなかを、垂直に吸いあげられていくような、そんなここちよさ……。
 本を閉じた。水平線。
   *
 ねむりにおちるまえ、すこしだけ、わらえた気がした。

(了)


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