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五月――晴耕雨読――


OLD DAYS TAILOR - 晴耕雨読



雨の日の窓というのはどうしてこんなにも完璧に悲しみのかたちをしているのだろう。あまりにも悲しみを象徴するものだから、だからまた、悲しみに慣れきっているようにも見えるのだ、それが悲しみの完璧さとしてよくあらわれている。

(雨の日は、窓は決まっておぼえたての雨のしぐさで泣こうとする。)

しっとりと、しかも切れ目なくふる雨だった。
網膜にも鼓膜にもまといつくような、
そんないやな感覚がある。

だから、ほとんど体温のない町を歩く。

水たまりを踏むと
水たまりが「布じゃない」と囁いて
そっと水の輪を広げる。

ふいにうしろをふりかえるがそこにはだれもいない。

ぼくがこうやってたびたびふりかえるのは、自由意志なんてものではなく、あらかじめ組みこまれていることのようにもおもえる。じぶんではわからないが、きっと何歩かすすむたびにうしろをふりかえってしまうような、あるいはうしろをふりかえらざるをえないようなプログラムが設定されているにちがいない。
背後にはだれもいないことはもちろん知っている。しかし、だれもいないことを確認せずにはいられない。
面倒くさいけれど、あらがえない、これがひとりの人間の性(さが)なのだとおもう。

「この世で僕を捉まえることはできない。僕は死者たちのもとに、そしてまだ生まれていない者たちのもとに住んでいるのだから。」クレーの墓碑にも選ばれ有名になったこのことばは、一九二〇年彼のキャリアの画期となった年に公にされた。
パウル・クレー展にいってきたというアート好きの友人は、ばかのひとつおぼえのようになんどもなんども、くりかえしくりかえしそのことばを吐いては満面の笑みを浮かべていたっけ。

ふと視線をあげると、鳥になることをも乗り越したはばたきのなごりが、風のなかの日付を編みこんで、まるでひとつの季節のようにぼくの胸をうつ。

(鳥は、もしかしたら飛ぶこと自体の、そのゆくえに溺れるのかもしれない。枝から枝へ、まちからまちへと、たとえどこへいこうとも溺れずにはいられないのであれば、せめてはばたきだけはのこそうと、そういった魂胆なのかもしれない。)

錆びて蓋がはずれかかった郵便受けやひとむかしまえの地球儀や「かもしれない」という不確定要素……。

金物屋のむこうに虹がかかっていて、ずいぶんとまずそうだな、とおもった。




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