FC2ブログ

記事一覧

日原正彦さんの詩「鳥」(詩誌『橄欖・第一一三号』)を読む

詩誌『橄欖・第113号』(表紙)



 日原正彦さんの詩を読むと、ことばをうしなう。いつもそうだ。
 あ。
 とおもったら、もうおそい。
 ぼくにとっていい詩とは、
 あ。
 とおもわせてしまう詩のことである。
 もちろん、はっと息をのむ詩もいい詩だし、しばし、あぜんとしてしまう詩もいい。
 いい詩には、ことばをうしなわせてしまうなにかがある。
 そのなにかとは、いったいなんだろう?
 きっとだれもこたえられやしない。詩人だってお手上げだ。
 でも、ひとつだけたしかなのは、その〝なにか〟とやらを、つい、書いてしまえる詩人がいるってことだ(「つい、だなんてとんでもない!」とお叱りをうけるかもしれないけれど、けれども「いい詩」の条件は、つい、なんだとおもう)。
 すこしくやしいけど、めちゃくちゃうれしい。じぶんが書けたらどんなにいいだろう。あと三十年くらい書きつづければ、つい、が来るだろうか。もしかしたらぼくには、つい、など訪れないかもしれない。
 や。話をもどそう。
 日原さんの詩「鳥」は、〈遠い昔/わたしだけが見送った/わたしだけの鳥〉というはじまりかたをする。鮮烈だ。
 あなたもきっと、遠い昔に一羽の鳥を――あなただけの鳥を――見送ったはずである。
 そしていまもなお、あなたはその鳥を追いつづけている、はずである。
 たとえば、ふと空を見あげたときのまばゆさや立ちくらみ、木漏れ日にまぎれこんだ影や川面をさっとよぎっていったものに、たちまちその場にうずくまって泣きだしてしまいたいような、どうしようもないほどなつかしいようなせつないようなかなしいような思いに駆られる瞬間は、ないだろうか。
 消え入りそうで、消えない。
 抱きしめたいのに、抱きしめることができない。
 そんな、一瞬――。
 たえず忘失の一歩手前でもちこたえているのは、はたして詩人なのか。読者なのか。あるいは、詩そのもの、なのかもしれない。
 読んでみてほしい。

   *

  遠い昔
  わたしだけが見送った
  わたしだけの鳥

  それは 水をかきわけるように
  高さをかきわけ そして
  高さを消しながら飛んでいった

  小さな高さから徐々に大きな高さを消しながら

  はるかな
  視えない 高みへと そして

  鳥がある光り輝くような重さになったとき
  それは宇宙へ沈んでゆくほどの不思議な重さなのだった

  鳥よ

  いつか おまえは帰ってくるだろう おまえが
  わたしのひとみに 産みつけていった 卵が割れて

  一羽の 死が
  孵るころに(「鳥」全文)

   *

 ぼくたちはことばを知っている。
 一羽の鳥を手放してまでしてことばをおぼえたのは、たぶんきっと、詩をつたえあうためだ。
 詩人であるとかないとか、そういうことではない。
 詩というのは、生きとし生けるものすべてにある。もちろん自然のなかにも。もっといえば、宇宙全体がひとつの詩だ。
 もういちど、いおう。ぼくたちは詩をつたえあうためにある。だからこそ、鳥を手放し、ことばをおぼえた。
 しかし、ぼくたちはいつかことばをうしなう必要もある。ことばをうしなうために、ことばをおぼえ、詩をつたえあっている、といってもいい。ことばをうしなうために、一日一日すこしずつ〈わたしのひとみに 産みつけていった 卵〉を育てているのだ。そしてこれこそ、ことばをよりよく――あるいは、すこやかに――うしなうための予習復習なのだ。
 わらわないでほしい。
 一羽の鳥がなぜ、いってしまったのか。そしてなぜここに卵があるのか。
 あなたは、なんてこたえるだろうか。
 ぼくは、
 愛を――
 そう、こたえる。
 きれいごとだとわらわれるかもしれないけれど、
 愛を――
 そう、こたえたい。

   *

 日原さん。いい詩を、ありがとうございました。



詩誌『橄欖・第113号』(目次)




スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント