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タイムマインド(潤一編)(60)

「これは、惣次が二年のころ、運動会のときだわ」
「横にいる人は早川愛美さん、ですよね」
「そうね。このときはまだ二人ともつき合ってはいなかったわ」
 僕は早川愛美を見つめた。髪を三つ編みにして、赤い鉢巻きをつけている。まだ十分にあどけなさがあった。今は――体操服といえば――どの学校でもジャージだと思うが、この当時はブルマのようだ。彼女の白くすらっとした足が地面に影をつくり出している。
 そこで――僕はふと写真に顔を近づけた。早川愛美の太ももに痣があるのだ。
 慶子さんがページをめくってからも、僕の脳裏には、早川愛美の痣が残像として揺らめいていた。
 そのあと、忠人さんに誘われて飲むこと――もちろん、僕はジュースである――になった。僕たちは台所で静かに会話をした。話題はもっぱら初瀬惣次のことだった。小学生のころは国語が得意だったこと。リレーは苦手だったけれど障害物競走は決まって三位以内だったこと。惣次の思い出に僕は耳を傾けた。前世の自分をもっと、もっと知りたかった。
「……最初は反対しとったんじゃ。鳥取砂丘を見に行くなんて無理だ、とな。でも、惣次は、あいつは『鳥取砂丘ぐらいどうってことない』とかなんとか言って、折れんかった」
 忠人さんは思いっきりテーブルをたたいた。飲みかけのコップやつまみの入った皿がふるえた。
「そんな判断をしてしまったばかりに、惣次は……」
 彼は、ゆっくりと、初瀬惣次が死んでしまった日の話をはじめた。
 その日、惣次は早川愛美といっしょにマイクロバスに乗り、鳥取砂丘に向かった。そこまではよく知っている。問題はその先のことだ。
 砂丘に行くまでに、何度かヘアピンカーブを迎えるらしい。事故はそのときに起こったのである。対向車線から大型トラックが勢いよく迫ってきたのが、はじまりだった。バスの運転手はそれに動揺し、ハンドルをすべらしてしまった。そして惣次たちを乗せたバスはガードレールにぶつかり、横転したのだ。
 初瀬惣次と早川愛美の人生はいとも簡単に絶たれた。何か一つでも起こらなければ、という事故だった。
 ──だけど……。
 だけど、初瀬惣次が死んだからこそ、今の僕が存在しているのである。僕は複雑な気分だった。
 風呂の引き戸がガラガラと開く音が聞こえた。ほどなく慶子さんが台所に入ってきた。
 慶子さんも晩酌に加わり、あたりはなごやかな雰囲気に包まれた。目の前の夫婦はいろいろとしゃべってくれた。
 まずは初瀬惣一のことだ。彼の心中は知っているので、彼の妻のことを教えてもらった。惣一の妻は、惣一が死んでからというもの、女手一つで息子を――忠人さんを育てたのだそうだ。そして梨の講習会に行くようになり、親しい人に助けてもらいながら、農業を学んだ。
「……おふくろは偉い人間だったわ。親父を憎んでいたけどな、果樹園だけは、見捨てんかった。この家の伝統を断ち切ってはだめだと、一生懸命、寝る間も惜しんで働いた。僕は会社に勤めとったけぇ、果樹園に毎日足を運べんかったから──今の樹木は、おふくろが育ててくれたものだと言ってもいい」
 一昨年の秋に心臓発作で急逝したらしい。
 僕は初瀬惣一の目から見た彼女しか知らなかった。だから、忠人さんの話で、見方がだいぶ変わった。
 ビールを少し飲んだのがいけなかったのか、僕は突然吐き気に見舞われた。急いでトイレに駆け込み、消化されていなかったものを吐き出した。酸味が鼻の奥をついた。
 だいじょうぶか? と忠人さんが背中をさすってくれた。
「奥の間に布団を敷いているから、そこに行って横になるといい」
 僕はその言葉にしたがい、支えてもらいながら寝床に行った。
 忠人さんの声がかすかに聞こえる。すまんなぁ、飲ませてしまって。君は未成年だものな……。


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