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タイムマインド(潤一編)(59)

 風呂から上がり、台所に行くと、テーブルの上にぶつ切りのスイカが置かれていた。どうぞ、食べて。慶子さんが洗い物を片づけながら言った。
 僕は椅子に座り、真っ赤な果肉にくらいついた。口の中に甘い汁が広がり、ほてった体をすずしくしてくれた。
 忠人さんはたった今、僕と入れ替わりに風呂へ行ったので、しばらく上がってこないだろう。慶子さんの後ろ姿を見つめていると、次第に意識が「日常」に溶け込むようだった。父が死んでから何年も味わっていない「日常」――望んでいたものが手に入りそうだった。ここの家の息子として生きられないだろうか、暮らせないだろうか、と僕は思った。
「あっ、そうだわ」
 慶子さんは手をぱんとたたいて、
「潤一君、惣次のアルバムを見てやってくださいな。ずっとほこりまみれになっているから、たまには出して見てやらないと」
「はい、もちろん」
 僕はスイカを皿に戻し、慶子さんのあとを追ってとなりの部屋に行った。そこはタンスしか置かれていない殺風景な部屋だった。
「ここ、惣次くんの部屋だったところですよね」
「うん……ほとんどのものを捨てちゃったわ。惣次が死んでからしばらくの間は、そのままにしていたんだけど、だんだん苦しくなってきて、ね。今じゃあ後悔してるわ。あの子のものをなんで捨てちゃったのか、って」
 慶子さんは押し入れの中を探しながら言った。そして僕を手招きした。
 僕は慶子さんの横に座り、初瀬家のアルバムを眺めた。
 そこには初瀬惣一の写真があった。果樹園の草の上に座っていて、となりには勝ちゃんがいた。二人とも笑顔をこちらに向けている。つづいて、惣次の写真である。小学生のころだろうか、家の前でサッカーボールを蹴っているところだ。ほかの写真も見てみる。クラス会で歌をうたっている彼、中学校の制服を着て玄関先に立っている彼──。
「……これはサッカーの試合のときよ」
 慶子さんが言った。
 惣次がボールを蹴っている。位置的に見てディフェンスだろうか。
「この試合、五対一で圧勝したのよ。今でもよく憶えているわ」
 彼女は目のまわりに小じわをつくりながら、
「そのころ、『惣次が試合に出ると必ず負ける』っていうジンクスがあったのよ。まるで疫病神扱いだったわ。だから、近野君が五点も入れてくれて、スカッとしたわ」
「近野君?」
 引っかかるものを感じて、僕は聞き返した。
「あら、知らないの? この子よ」
 慶子さんの人差し指が示す男の子を見た。男の子──すぐに近野朋泰だと気づいた。
「この子ねぇ、すごくサッカーが上手だったのよ。顔もいいから女の子に人気があったみたいだし……」
 僕は相槌を打つのも忘れて、写真の中の近野朋泰を見つめた。
 彼のことはよく知っている。初瀬惣次の「視点」を介して知っているのだ。だが、それはあくまでも、一人の登場人物という認識でしかなかった。ほとんど虚構の人物としてとらえていた。惣次の物語の中だけに存在している人物だと――。
 それは間違いだった。考えてみれば、初瀬惣次が生きていた時代から現在に到るまで、そんなに月日は流れていないのだ。
 僕はおそるおそる慶子さんにたずねた。
「その……近野さんは、今、どこで何をしているか、わかりますか?」
 慶子さんはたちまち我が子を自慢するような誇らしげな表情になった。
「それがねぇ、東京で高校の教師をやってるんだって。サッカーの顧問も務めているって、聞いたわ。もしかしたら東京のどこかで、潤一君と会ってるかもしれないわね」
 もしかしたら、じゃない。実際に会っているのだ。
 なんとも言えない心境でいるところに、またある一枚の写真が気になった。
 惣次といっしょに早川愛美が写っているのである。二人とも体操服を着ていて、何やらほほえみ合っている。


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