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タイムマインド(潤一編)(38)


       九

 鍵を開け、玄関に入ると、翔ちゃんが眉をひそめた。僕の鼻は慣れてしまっているが、この部屋に入った者はすぐに異臭に気づくだろう。
「なんか、変なにおいがしねぇ?」
 翔ちゃんは鼻をひくひくさせた。
「上がってみればわかるよ」
 僕はリビングのドアを開けた。隠し事をしたっていつかはバレるのだから、だったら話しておこう、と思った。ロッベンが尻尾を振りながらやって来た。僕はエサの準備をしつつも翔ちゃんの反応をうかがった。
「なんだよ……これ」
 リビングに足を踏み入れた翔ちゃんは憮然としている。
 カーテンが閉められていて、薄暗く、ごみごみとしていた。ゴミ出しの日を逃した透明なゴミ袋と洗濯していない服が隅に追いやられ、テーブルの上にはウィスキーの瓶が琥珀色の液体を残したまま置かれている。絨毯にはスナック菓子や枝豆が散らばっている。また散らかしたのか、と僕はため息を漏らした。
 全部、母の仕業だ。母は最近、立ち直らないといけないと思ったのか、自分で料理をするようになった。しかし、残り物をうまく処理せず、派手に散らかしてしまうのだ。
 母は、たぶんアルコール中毒に陥っている。僕は思うんだけど、父の死からは立ち直っている――でも、アルコールに犯されているから、こんな生活から抜け出せないのだ。
 僕は翔ちゃんを自分の部屋に招き入れ、父が死んだあとのこと、母が堕ちていったことを包み隠さず話した。
 今までにも誰かに聞いてほしいときがあった。でも言えなかった。友だちはいるにはいるが薄っぺらい関係だ。グラビアアイドルやサッカーの話題で盛り上がったり、誰と誰がつき合っているか予想し合ったりという、空騒ぎを繰り返すだけで、真剣に話し合ったり、熱くなったりする瞬間なんて一度もなかった。しかし──しかし、今は違う。ばかみたいに真面目な態度で僕は翔ちゃんに話していた。
 翔ちゃんはフローリングの床に向けていた視線をゆっくりと上げた。
「お母さんのこと……もしいやじゃなかったら、俺の親父に頼んでみようか?」
「いや、いいよ。うち、そんな金もないしさ」
「金なんて心配すんなって」
「それに、さ。あまり認めたくないんだよ。自分の母親が狂ってるなんて」
 狂ってる。自分で言っておいて、少し目がうるんだ。翔ちゃんから顔をそむけ、言葉を継ぐ。
「いや……母さんは、アル中かもしれない。普通じゃないとも思う。でも、狂ってはいない」
「そりゃそうだよ。狂ってる人間なんて一人もいない。俺の親父も言ってる。うちに来る人たちは、ただたんに、ほかの人よりも少し繊細なんだ、って。だから、潤の母ちゃんは繊細な人なんだよ」
 翔ちゃんは扇子を広げたり閉じたりしながら言った。
「診てもらいたくなったら、いつでも言ってくれよ。まあ、うちの親父じゃなくても、いいクリニックはたくさんあるから、そこに行ってもいいし」
 僕は、ああ、とうなずいた。彼は照れくさそうに笑って、扇子の先っちょで後頭部をかいた。
 湿っぽくなったので、僕は話題を変えた。
「そういえばさ、翔ちゃんのお父さんは前世療法の研究をつづけているの?」
「ああ、もう実践に移してる。退行催眠を受けたいっていう患者はまだまだ少ないけど、それでもけっこう予約が入ってる」
「やっぱり、みんな自分の前世が気になるんだね」
「興味本位で申し込んでくるやつもいるけど、大半は、今の悩みを解決するためにだよ。前世にさかのぼらなければ治らないほど、根強く残っているトラウマを抱えている人がいるからな」
 翔ちゃんはジュースを呷ってから、
「潤はもう受ける気ねぇの?」
「まあ、気にはなってるけど……」
「だったら、もう一度、退行催眠を受けてみろよ。まだ思い出していない人生があるんだろ?」
 思い出していないのは、初瀬惣次の人生だ。文化祭の日、早川愛美とキスをした。あれからどうなったのか、それを知りたい欲求がわいてきた。前世のことなんてどうでもいいと思っていたはずなのに……。
「水に対する恐怖はどうだ? 治った?」
 うん、と、僕は前世の記憶を振り返りながら答えた。
「僕が、初瀬惣一っていう人のとき、恋人の奥田愛子といっしょに崖から飛び降りたんだ。海に向かって真っ逆さまに。たぶん、それが水恐怖症の原因だったと思う。それを思い出してからはよくなったよ」
「なるほどな……。じゃあ、バス恐怖症はどうだ?」
「それはまだ治ってない」
 修学旅行のとき、やはりバスには乗れず、僕だけ教師の車で移動した。あのときは、みんなにさんざんばかにされた。
「もしかしたら、まだ見ていない前世に問題があるかもしれないな」
 翔ちゃんはパンと扇子で膝を打った。
「よし、決まり。もう一度前世を見てみろ。真実を明らかにしようぜ。親父もさあ、適当な性格のくせに、尻切れとんぼのままはいやなんだよ。あれからずっと潤が来るのを待ってるんだぜ」
 クマ先生は本当にいい人だ。勝手に投げ出した僕を待ってくれているなんて──悪いことをしたな、と反省した。
「じゃあ診てもらおうかな。親父さんによろしく伝えといてよ」
「ああ、わかった」
「──でも、軌道に乗ってよかったね」
 僕は、小学校のときの、家計が苦しいと嘆いていた翔ちゃんを思い出した。
「長谷川クリニック、評判、いいじゃん」
「いやー、まだまだだって。……前世療法っていうものを理解していない人、多いし。うちが前世療法をはじめたときだって、変な目で見られたもんよ」
「だったら、ホームページでもつくって紹介してみたら?」
「どういうことだよ」
 翔ちゃんは身を乗り出してきた。
「長谷川クリニックをネットで広めるんだよ。そこに前世療法の解説を入れ、掲示板とかを設ける。患者同士がコミュニケーションするところでもいいし、前世療法を受けてこんなふうに変われました、っていう書き込み場所でもいい。そうしたら、これから長谷川クリニックに行こうかどうかためらっている人たちの不安をいくらか取り除けると思うんだ。だって、前世療法なんて言われたってぴんとこないじゃん」
「へぇー、さすが潤だ。頭いいな。さっそく親父に言ってみるよ」
「まあね」
 僕は胸を張ったが内心では、すでにやっているサイトを言っただけなんだけどな、とつぶやいた。
 翔ちゃんはあたりを見まわした。
「おっ、小説が増えてるな」
「もうサッカーをする気にはなれないし、唯一つづけていることと言ったら、読書ぐらいだよ」
 そこで僕のケータイの着信音が鳴り響いた。尻ポケットから取り出し相手の名前を確認した。河名愛だった。僕はため息をつき、着信を拒否した。せわしなかった音が急に鳴りやんだ。
「なんだよ?」
 翔ちゃんがふしぎそうに言った。
「いや……愛からだったから」
「ああ、おまえらつき合ってるんだよな。なんで切っちまうんだよ。俺にかまわなくていいからさ、出てやれって」
「いや、いいんだ」
 翔ちゃんが眉間にしわを寄せた。
「うまくいってないのか?」
「翔ちゃんって昔から勘が鋭いよね」
「はぐらかすなよ」
 僕はうつむいた。愛はぜんぜん悪くない。関係を壊そうとしているのは僕の方だった。
「……実は、別れようと思ってるんだ。でも、愛に明るい笑顔で来られると、どうしても言えなくって」
「理由はなんだよ。ほかに好きな子でもできたのか?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、どういうわけだよ」
 僕自身、明確な理由がわかっていない。何かが欠けている、それしか言えなかった。
「まぁな、俺がなんだかんだ口出ししてもしょうがないよなぁ……」
 翔ちゃんはのんきな声で天井を仰いだ。
「でもよぉ、河名はなかなかいいと思うぜ」
 春のうららかな日差しが窓を透かして部屋を照らしている。また着信音が鳴り響いた。


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