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タイムマインド(潤一編)(36)

 多摩川沿いで会った「むかつく女」のことが頭から離れなかった。あの射るようなまなざしをずっと思い浮かべていた。むかつくにはむかつくけれど、なぜか気になってしかたがなかった。よくわからない倦怠感のようなものに見舞われ、僕は友だちの誘いを断ってまでして部屋のベッドから動こうとはしなかった。河名愛からも電話がかかってきたが出なかった。このごろメールでさえうっとうしくて返していない。ひどいかもしれないが──彼女と僕は違う高校なので──このまま連絡を取らず自然消滅になるのを待っていた。もう恋愛感情は無きに等しかった。
 いらいらしたり複雑な気分に陥ったりしているうちに、入学式を迎えた。
 指定された教室に行き窓側の席についた。式がはじまるまで待っていなければならないのだ。同じ中学校出身の者たちは楽しそうに雑談しているし、知り合いのいない者は大人しく席についている。僕は後者だった。中学校からの友だちは、このクラスにはいない。翔ちゃんもこの高校だけど、別のクラスだ。まあその方が気が楽でよかった。翔ちゃんといっしょの教室だったら、いやでも毎日顔を合わせなければならないところだった。またもとどおりの関係になれればいいのだが、関係を修復するまでのことを考えると億劫になってしまう。
「なあ知ってるか?」
 自分に向けられた言葉かと思い、顔を上げた。が、前の席にいる二人が話しているだけだった。
「このクラスに〇〇〇〇がいるんだぜ」
 右側の男がにやにやした顔で言った。髪を整髪料で逆立てた、気取ってそうなやつだった。かすかに香水の──たぶんスウィートフローラル系だ──においが漂っていた。マジかよ、と、僕の目の前の男が反応した。
「誰か当ててみろよ」
「そうだなぁ……」
 ばかばかしいと思いながらも、僕は頬杖をついて聞き耳を立てた。
 あいつか、いや、違うなぁ、あの子かなぁ……。目の前のニキビだらけの男は真剣に女子を吟味している。〇〇〇〇が誰だかわかったからってどうするんだよ、と僕は笑いをこらえながら思った。
 右側の男子がにやりとして、前方を指さした。
「あいつだよ、あの茶髪の女」
 僕はつられてそこを見た。
 心臓が飛び跳ねた。廊下側の一番前の席にいる子に見覚えがあったからだ。後ろ姿だけでも、一目でわかった。間違いなく、三日前の、あの「むかつく女」だった。
 目の前の男子は中腰になり、
「マジで! 結構かわいいじゃん。……でも、なんか暗い感じがするよな」
 右の男子が微苦笑する。
「あいつすごくじめじめしてんだよ。中学で同じクラスだったことがあるんだけど──あいつ、いつも孤立していて、休み時間なんかずっと本を読んでるんだ。はっきり言って薄気味悪かった」
「それで、なんで〇〇〇〇なんだよ」
「俺、放課後に忘れ物をして教室に戻ったんだ。そのとき、廊下のトイレから、男と手をつないで出てくるところを見たんだ」
「それだけ?」
「……まだつづきがある」
 右の男子が少し語調を強めた。なかばムキになっているようにも見える。
「体育館に後輩を連れて入っていくところを見たし──とにかく、そういうのを、いろんなところで目撃したんだ」
 おまえの方が薄気味悪いって、と、僕は内心で突っ込みを入れた。そいつの名札を見ると、「楠田」と書かれていた。僕はなぜか楠田に反感を持った。殴りたい──そんな衝動に駆られた。
「それじゃあ、体育館に移動します。みんな、廊下に並んで」
 教師がやって来た。まだ三十代前半の、若い教師だった。髪は短く、スーツをきっちりと着こなしていた。僕はなつかしさのようなものを感じたが、その教師に見覚えがあるとは思えない。
 みんな腰を浮かせぞろぞろと廊下に出ていった。僕は楠田の背中をにらみつけながらも、少しずつ気持ちを落ち着かせた。

 体育館の壇上では校長が新入生に向けて激励の言葉を述べていた。僕はあくびを噛みしめうつむいたまま聞き流した。母は今ごろパートに精を出しているだろう。昨夜、入学式には行かなくてもいい? と聞かれた。父がいたとき──ホームドラマの一役を演じていたときの彼女からすれば、のちに自分がそんなことを言うなどとは思いもしなかっただろう。今の母は底辺まで落ちているのだ、と思った。
 僕たちはまた教室へと戻った。やがてさきほどの教師が入ってきた。ざわざわしていた教室が静かになった。
 教師はホワイトボードに紙を貼りつけて、
「まずは、ここに書かれているとおりに座ってください」
 僕は自分の名前が書かれている席をたしかめ、その席に腰を下ろした。どうやらあいうえお順に並べられているようで、僕は廊下側の一番前になった。あの「むかつく女」が座っていた席だった。
 そこで、あの女はどこだろうと思い、後ろを振り向いた。彼女はこの列の最後尾にいた。目が合った。相変わらず鋭いまなざしだった。僕はとっさに視線をそらした。気づかれたか? と、どきどきした。三日前に会ったことを憶えているだろうか。
 ホワイトボードの紙を見て、彼女の名前を調べた。
 ──宮崎初美。
 僕はその名を反芻し、とたんに恥ずかしくなった。なんであの女のことを気にしてるんだよ、と自分自身に怒鳴った。
 教師のせき払いが聞こえた。
「えー……このクラスの担任を任されることになりました、近野朋泰と言います。よろしくお願いします」
「センセー、ちょっと堅苦しくない?」
 一人の女子が砕けた口調で言った。
「そうだな」
 担任の教師は、打って変わって表情を和らげた。子どもっぽい、無邪気な笑顔だった。
「いつも緊張するんだよ。こういう日は」
 場の空気がゆるやかになった。周囲が少しざわついた。
 僕は今、何かが引っかかっていた。以前どこかであの教師の笑顔を見たような気がする。それに、近野朋泰という名前を、僕は知っていた。
「先生、もてるでしょ?」
 窓際にいる男子が言った。
「よくわかるなぁ。俺、すっごいもてるんだよ」
「謙遜しろよ、って言っても──やっぱ先生、格好いいもんなぁ」
 二人のやりとりに教室中がどっと沸いた。
 あっ! と、僕は無意識のうちに声を上げていた。とたんに静まり返り、みんなの視線が僕に集中した。
 僕は顔に熱を感じつつ、閉口した。
「えーと、久野君、だっけ?」
 教師は少し困惑した様子だった。
 はい、と僕はいちおう返事をした。もしかしたら、「あのときの少年だな」と言われるかもしれないと思い、僕は身構えた。
「そんなに似てるかな」
「は?」
「竹野内豊に!」
「先生、調子に乗りすぎー」
 誰かが突っ込みを入れた。
 ──なんだよ、憶えてないのか……。
 小学校六年生のころ、僕は市民プールの踏み台から飛び降りて、危うく溺れ死ぬところだった。そこにたまたま居合わせた――今目の前にいる――教師に助けられたのだ。だから彼の顔を見た瞬間なつかしさを感じ、近野朋泰という名前を知っていたのだ。
 人と人はどこでどんなふうに交差するかわからないものだ。僕はそのことを無性に伝えたくなったが、結局口をつぐんだ。


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