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タイムマインド(潤一編)(35)


       八

 高校の入学式を三日後に控えていた。その日、僕は愛犬ロッベンを連れて多摩川沿いを散歩していた。ロッベンは雑草のにおいをかいだり、道端に落ちている菓子の包装紙に興味を持ったりしながら僕を牽引する。好奇心旺盛なやつだなぁ、と僕は苦笑した。
 午前の日差しが気持ちいい。ずっと向こうまでつづいている土手には、ジョギングする青年や肩を並べて歩く老夫婦の姿があった。僕はのどかなこの場所が好きだった。ときどき夜中に一人で来て川辺をうろついたりもする。
 そろそろ引き返そうかと思っていたとき、ロッベンが土手の石段に向かって軽く吠えた。そこを見ると、同い年くらいの女の子が座っていた。
 その女の子がこちらに振り向いた。ロッベンは早くも興味を失ったのか、道端に戻って綱を引っ張った。
 でも僕は歩き出すことができなかった。
 泣いていたのだ。目の前の女の子は、表情を変えずに泣いていた。細く濃い眉毛に、もの悲しげな目、きつく結ばれた唇……。
 女の子は少しけげんそうに眉をひそめた。僕ははっとして我に返った。
「あ、いや……なんで泣いてるのかなって思って……」
 彼女は黙ったままこっちを見ている。
 自分がなぜ動揺しているのか、わからなかった。
「余計なおせっかい……だよね」
 沈黙が風に乗せられてやって来た。彼女の、背中まである長く茶色い髪が、ふわりと躍った。立ち去る機会を逃した僕は、相手の言葉を待ちつづけることしかできない。
 その犬……。射るような目つきのまま、彼女は口を開いた。感情のこもっていない、低い声だった。
 え? 僕はロッベンを一瞥してから、聞き返した。
「人に吠えるなんて、いったいどんな躾をしているのよ?」
 すぐには女の子の言葉がのみ込めなかった。彼女が石段を上がって僕の横を通り過ぎたとき、ようやくばかにされたのだと気づいた。
「人に吠えるのは犬の習性じゃん」
 僕は彼女に向かって言った。内心むっとしていた。
 彼女は無言で涙をぬぐいながら去っていく。
 ──なんだよ、あの女。むかつく。
 マンションに着くまで、今度は僕がロッベンを牽引した。


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