FC2ブログ

記事一覧

タイムマインド(潤一編)(32)

 ケータイの着信音が響き、僕は強制的に現実に引き戻された。
 ジーンズのポケットからケータイを取り出しディスプレイを見ると、お母さんからだった。僕はクマ先生に、出てもいいですか? と聞いた。クマ先生は苦い表情で、いいよと答えた。電源を切るのを忘れていた僕は、すみませんと謝ってから電話に出た。
 お母さんの泣き声が聞こえた。
『どうしたの!』
 僕は慌ててたずねた。
 お父さんが、お父さんが……車に、撥ねられたの。
 その瞬間、体がさっと冷え込んだ。
『今、病院にいるの。潤君も、早く来て。場所は──』
 近くの病院だった。僕はわかったと返事をして電話を切った。頭の中がぐるぐるまわっていて、めまいのような感覚に襲われた。だいじょうぶか! とクマ先生が体を支えてくれた。
「お父さんが事故に遭われたのか? 今すぐ車で連れていってあげるから」
 クマ先生は机の引き出しから車のキーを取り、僕を背負って診療所を出た。僕は、激しく揺られながらも、これは何かの間違いだと思った。
 クマ先生の軽自動車に乗って病院に駆けつけた。休日なので救急用の出入り口から入った。
 長い廊下の先に「手術中」のランプが点灯していた。長椅子にお母さんがうなだれる格好で座っている。クマ先生はお母さんに一礼してから、とりあえず座ろう、と僕をうながした。三人で灰色の長椅子に腰かけ、ランプが消えるのを待った。合成皮革でできたそれは、とても硬くて、お尻が痛くなった。でも僕は立たなかった。立つ気力がわかなかった。クマ先生は自販機からジュースを買ってくれたが、口をつけなかった。薄暗い廊下をじっとにらみつけた。
 あたりには窓がなく、外がまだ明るいのかどうかさえわからなかった。動きらしい動きと言えば、クマ先生が自宅に電話を入れるため外に出ただけだった。だんだんお尻の感覚が麻痺していったけど、僕はなおも姿勢を崩さなかった。両膝に手を置いたまま床をにらんでいた。お母さんもマネキン人形のように固まっていた。
 頭の中にお父さんが浮かんできた。やさしいときのお父さん、きびしいときのお父さん──いろんな表情のお父さんがつぎつぎと浮かんだ。僕の前で平気でおならをするお父さん、百点を取ったときに頭をなでてくれるお父さん、真剣な目つきでパソコンのキーボードをたたくお父さん……。
 僕はうめき声を漏らした。悲しくなった。二度とお父さんが帰ってこないような予感がしたからだ。
 お父さんが死んじゃうよぉ。僕は鼻水をぬぐいながら、わめいた。
「縁起でもないことを言わないで!」
 お母さんが怒鳴った。廊下全体に反響するほど声が大きかった。
 僕もクマ先生も驚いて、お母さんを見た。お母さんは全身をふるわせていた。手に握り締めていたハンカチを目もとにあて、いきなり泣きわめいた。
 こんなに取り乱したお母さんを見たのははじめてだった。僕もお母さんと共振して泣きじゃくった。クマ先生は僕を厚い胸の中に入れてくれた。こめかみのあたりに彼の髭があたってちくちくしたけれど、ぜんぜん嫌じゃなかった。
 お願いだから無事でいて! 僕は何度も何度も祈った。神様、お願いだからお父さんを助けて!

 数時間後、僕は神様なんて存在していないことを知った。


スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント