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タイムマインド(潤一編)(20)

 今日も僕は昼食を食べ終えると果樹園に行った。花芽を取る作業に没頭した。何も考えない方がいい。考えたって、空しいだけだから。
 ──惣一さん。
 やわらかな声が聞こえた。すぐにそら耳だと思い直し、僕は頭を振った。枝から枝へと手をはわせ花芽を落としていった。
 四月の暖かい日だった。梨の花の隙間から見える、陽気な日差しがまぶしい。仕事が終われば桜並木を散歩しようと思った。楽しみなどそれぐらいしかないのだ。
 惣一さん、と、また声が聞こえた。近くから、鮮明に聞こえた。
 僕は後ろを振り向いた。
 目の前には、愛子さんがたたずんでいた。水玉のワンピースを着た愛子さんが、そこにはいた。おかっぱ頭ではないが肩まで伸びたつややかな髪、大きな目、かたちのいい鼻、薄い唇。雰囲気はあのころとまったく変わっていなかった。まぎれもなく、僕がずっと求めていた人だった。
 ──信じられない。もう会えないと諦めていたのに。
 おひさしぶりです。愛子さんは伏し目がちに言った。
 どうしただ? 僕は驚きを隠せず、口を開いた。なんで、ここに?
『夫とは離婚しました。離婚して、ここにやって来ました』
『嘘……だろ』
『本当です。どうしても我慢ができず、離婚届に判を押してもらいました』
 僕は金魚のように口をぱくぱくさせた。言葉が出てこない。
 沈黙にたえられないのだろう、愛子さんは勝手にしゃべった。家の窓から開花前の桜の木を見ていたある日、別れよう、と、決心したのだそうだ。そしてすぐに旦那に離婚届を突き出した。当然、反対された。世間の目を意識すれば、たとえ夫婦の仲が悪くても離婚などできない。だが、愛子さんは折れなかった。
『昨日、実家に帰りました。兄はひどく怒っていて、食器棚の皿をすべて割ってしまいました』
 だけど、と愛子さんは顔を上げた。苦しそうな表情だった。
『うちは後悔してません。あなたのいない人生に堪えられなくなったんです。どんなに忘れようと思い込んでも、無理だった。何度もあなたと手をつないでいる夢を見ました。うちの心には、いつもあなたがいた。夫ではなく、あなたが……。夫には本当に申しわけないことをしました。それについては反省しています。でも、やっぱり、後悔はしていません』
『これから、どうするつもりだ? 村の者に噂されるで』
 愛子さんは口をきゅっと結んだ。
 僕には──たずねておきながらも──答えが一つだけあった。彼女と別れる前、静子に言われた一言を思い出したのだ。なんなら駆け落ちでもしたらええが。そう、妹は言った。
 僕は彼女の手を取った。
『どこかに行こう、今すぐ』
 愛子さんの目には涙が浮かんでいた。しばらくして、首を横に振った。
『……惣一さんには迷惑をかけられません。あなたの家には、待っている人がいるのですから。それに、うちにも子どもがいるんです。たった一人の、愛娘が』
『だったらなんでここに来ただいや。会いとうて会いとうて仕方がなかったからじゃないんか? 頼むけぇ、正直に言ってくれえや。会いたかったんだ、と』
 彼女は小刻みに首を縦に振った。今度は力強いうなずきだった。
『僕はいつもあんたのことを思っとった。本当だで』
 言いながら、涙声になった。目頭が熱かった。
『毎日毎日、あんたは今、何を見とるか気になってしょうがなかった。きれいなものを見とるんだろうか、それとも遠い僕たちの思い出を見てくれとるんか、気になっていた。あんたが今、触れているものはなんだろうか。やわらかいものだろうか、それとも硬くて重いものだろうか。あんたは今しあわせだろうか、それとも不幸せだろうか。そういうことを知りたくて知りたくて……』
 うちも、あなたといっしょの気持ちでした。愛子さんはそう言って、飛び込んできた。僕は強く深く抱き締めた。今までため込んでいた思いをありったけ腕に込めて彼女を抱き締めた。
 まるで子どものように、大の大人が泣きじゃくった。体内の時計はあの十九のころから進んでいなかったのだ。
 梨の花の香りが鼻先をかすめた。


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