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タイムマインド(潤一編)(18)


       五

 収まったのだろうか。僕はゆっくりと目を開けた。
 農道が一直線にずっと向こうまでつづいている。遠くに集落と山が見え、田んぼもあった。片田舎だった。
 僕は自転車を漕いでいた。ガチャガチャと音が鳴っている。腹のあたりに白くほっそりとした腕が巻きついている。荷台には愛子さん──そう、僕の恋人が乗っているのだ。
 僕は初瀬惣一という青年だった。時代は昭和二十五年、四月。今は夜明け前、あたりは薄暗い。
 僕たちは小高い山に向かっていた。肌寒いが体はほてっていた。愛子さんに緊張しているからだ。
 ガチャガチャ……ガチャガチャ……
 山の中腹で徐々に明るくなっていく景色を眺めた。となりに座っている愛子さんが、『線』の話を聞かせてくれた。
 ──うち、最近思うんです、うちと惣一さんは、点ではなく、線なのだと。

 記憶は走馬燈のように時の空間を駆けめぐっていく。

 僕は、愛子さんに前世の話をした。彼女は僕が言うことをすべて信じてくれた。雑貨屋でのしあわせなひとときだった。
 その日の夜、僕の父が衝撃的な一言を口にした。そういやぁ、奥田のバカタレの娘が嫁ぐらしいじゃねぇか、と。
 頭の中が真っ白になった。否定したかった。そんなこと、あるはずはない。だって、愛子さんは僕とつき合っているのだから。
 急いで彼女の家に向かった。家の裏にまわり、台所の網戸から中を覗き込んだ。愛子さんと両親が話し合っていた。その話を聞いて、僕は絶望的になった。彼女は呉服屋のところに行ってしまう。僕が夢見ていた将来は、あっけなく、がらがらと音を立てて崩れていった。人生でもっともみじめで最悪な夜だった。
 友人の勝ちゃんが酒を携えて我が家にやって来た。僕が帳面に愛子さんへの思いをつづっていたときだった。
 興奮した勝ちゃんは大声でまくし立てる。何がいいだいや。愛子さんをごっつう好いとるくせに。そんなに好いとるんなら、とことん尾を引きずって別れろ!
 翌日、妹の静子が僕の部屋に入ってきた。所在なさそうに片足をぶらぶらさせながら、言った。お兄ちゃん。うちな、応援しとるけぇ。
 ありがとうな、と僕は素直に礼を述べた。
 なんなら駆け落ちでもしたらええが。
 あほ。僕はそう言って、呆れる。
 ──泥棒!
 叫び声が聞こえた。雑貨屋から勝ちゃんが飛び出してきた。つづいて、愛子さんの両親が血相を変えて出てくる。勝ちゃんは菓子をたくさん抱えて逃げていった。
 愛子さんの家に行ったものの、なぜか呉服屋がいた。相変わらず無礼なやつだった。百姓の分際で、と彼に言われた瞬間、はらわたが煮えくり返った。
 愛子さんは言った。お引き取りください、と。
 呉服屋につかまれて家の外に投げ出された。悔しくてもどかしかった。僕はすすり泣きながら何度もこぶしを地面にたたきつけた。
 惣一……。誰かが僕を呼んでいる。惣一、惣一、と――勝ちゃんだった。左の頬を青く腫らしていた。奥田のバカタレに捕まったそうだ。僕のために。申しわけなかった。
 静子と勝ちゃんには、たくさん助けられてしまったな。
 気にすんな。勝ちゃんは照れくさそうに言った。
 僕は桜の木の下に座り、ひらひらと舞い落ちる淡紅色のそれを見つめた。儚い恋だった。
 僕は愛子さんからたくさん学んだ。花の美しさを学んだ。恋愛の楽しさを学んだ。奥田愛子だったからこそ、僕は学べたのだ。
 大切な人がそばにいてくれる──それだけで、何よりも幸福だった。
 おーい、お兄ちゃん。馴染みのある声が聞こえた。静子だった。
 僕は唖然とした。妹に促されながらこちらに向かってきている人を見て、心臓が跳ね上がった。愛子さん!
 まわりには僕と愛子さんしかいない。桜の花びらがきらきら輝いている。たぶん彼女とは、もう二度と会えないだろう。だけど──この時代では会えなくても、またいつか、別のかたちで邂逅できるに違いない、と信じていた。時間という絶対的なものをこえて、彼女とふたたび手をつなぐことができるだろう、と思っていた。
 名前をつけよう。僕は言った。自分が死ぬ前に、生まれてくる子に、孫でもいい、とにかく名前をつけるんだ。僕たちはきっと未来で再会する。生まれ変わって。そのときに、証拠がほしい。本当に僕たちの生まれ変わりで、魂は同じものかどうか、という証拠が。
 愛子さんはこう言ってくれた。もし初瀬惣一さんといっしょになれる可能性があるのなら、それに賭けてみようと思います。
 別れ際、僕は傘を彼女に手渡した。瞬間、体内で強烈な波が打った。さまざまな感情が一気に込み上げてきた。僕は愛子さんの肩を引っ張り、口づけを交わした。


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