FC2ブログ

記事一覧

タイムマインド(潤一編)(17)

 夏休みが終わりに差しかかったころ、クマ先生は「さあ、今日はいよいよ退行催眠だぞ」と言った。待ちに待った日が、とうとう訪れたのだ。
 僕は思わずスツールから立ち上がって、
「本当ですか!」
 と声を上げた。翔ちゃんに知らせたいけど──今日はほかの友だちと遊ぶらしく──ここにはいない。
 僕はベッドに寝転がり、右の手のひらを上にして、と言われ、それにしたがった。まずは、子どものころに楽しかったことを、印象的な情景を、思い出してください。クマ先生のおだやかな声が聞こえた。普段は野太いのに、こういうときはやさしさがこもっている。
 僕はまるで物語の世界に入り込むように、クマ先生の誘導にしたがって、意識を遠くの過去に持っていった。楽しかったこと……ああ、そうだ。まぶたの裏側に当時の映像がよみがえってきた。小学校に入学する日、僕はお母さんといっしょに校門をくぐった。幼稚園から知っている子、まったく面識のない子、鼻水を垂らした男の子、泣いている女の子――僕はこれからみんなと学校生活を送るのだ。僕はにっこりと笑った。
 するとクマ先生が、つぎはつらかったことを思い出してくださいと言った。
 つらかったこと。すぐに思い浮かんだ。幼稚園のとき、僕は翔ちゃんのほかにも仲がよかった友だちがいた。女の子だった。いつ知り合ったのかはわからない。気がつけばともに行動する仲になっていた。その女の子が、ある日死んだのだ。車に撥ねられて。野球のボールを拾ってこいと上の子たちに命令され、道路に飛び出したところ、運悪く車がやって来た。僕はあとからそのことを聞かされ、とっさには状況がつかめなかった。死とはいったいなんだろう、と思った。どこかに行っちゃうことだろうか。だとしたら、また帰ってくるのだろうか。
 幼稚園に行っても、その女の子がいないことに気づき、いっしょに遊ぶことができなくなった。そして、ようやく死とは「怖いもの」なんだとわかった。あの子は、もうどこにもいない。あの子の姿はもう、見られない。手を握れない。声も聞こえない。
 今――僕は涙を流している。過去を思い出しながら泣いている。あの子の死に、僕はずっと目をそむけていたのだ。
 そのとき、どんな気持ちでしたか? その女の子にはどういう気持ちを持っていましたか? クマ先生がそんなことを囁いている。
 だんだん気持ちが落ち着いてきた。温かい。僕は何かやさしいものに包まれているみたいだった。羊水──そう、ここはまるで胎内だった。僕は守られている。すやすやと眠っている。お母さんを感じている。
 その暗闇の中に、ぽつんと扉があります。ゆっくりとドアノブをひねり、引っ張ってください。そう、ゆっくりと、少しずつ。扉を開けると、タイムマシンがあります。過去にあなたをつれていってくれます。さあ、乗ってください。
 僕は言われたとおり、タイムマシンに乗った。車のかたちをしている。タイヤはない。ハンドルをつかむと、自動的にエンジンがかかった。メーターの針が大きくふるえる。強烈な震動が起こった。
 発進。タイムマシンは猛スピードで闇の中を駆け抜けた。前方にはかすかな光があった。その光に向かって疾走する。光がひと筋、またひと筋と流れてくる。闇が切り裂かれていく。どんどんどんどん光が支配していった。どんどんどんどん闇がなくなっていった。まるで太陽に突入するかのようだ。僕は思わず顔をそらし手をかざした。


スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント