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タイムマインド(潤一編)(16)

「最近はうちに来てないね。この間は翔太がお邪魔したから、今度はうちに遊びに来なさい」
「はい」
「じゃあ、はじめようか」
 クマ先生は身をひるがえし診療室に入っていった。後ろ手に組んでいたと思っていたのに、彼の両手が届いていなかったので、僕は噴き出しそうになった。クマ先生はどことなくおもしろい。外見はまったく似ていないけど、天然の部分は翔ちゃんに引き継がれているのかもしれない。
 狭い通路を進んで、診療室に入った。がんばれよ、と翔ちゃんが言った。何をがんばればいいのかわからなかったけれど、とりあえずうなずいて、厚手のカーテンを閉めた。
 スツールに腰かけ、クマ先生と向き合った。
「市民プールでのできごと、聞いたよ。うちの息子が迷惑をおかけして、本当にすまなかった。そのせいで水が怖くなったんだって?」
「翔ちゃんのせいではないと思うんですけど……水を見ると恐怖を感じるんです」
 クマ先生は、なるほどと言った。カルテに何か書いている。そして、どういうときに症状が出るかとか質問され、僕は答えていった。
「本格的にはじめる前に、まずこうやって、時間をかけて患者の病歴を調査し、重要な事柄についてはきっちりと知っておかないといけないんだよ。それが退行催眠の成功率を高める秘訣なんだ」
 クマ先生は言った。
「……それじゃあ、今日のところは前世療法を受けられないんですか?」
 僕は聞いた。
「ああ、残念だが。これでもセラピストの端くれなのでね。しかも……君の水への恐怖観念は、ちょっとわからない部分もあるから」
「もしかして、夏休みの間ずっと通わなければいけないんですか?」
「まあ、そういうことだね。すまないが、水恐怖症を取り除くためだと思って、我慢してくれ。翔太が何を言ったかはわからないが、今日は退行催眠なんてやらない。辛抱強くつき合っていこう」
 なんだか拍子抜けだ。
 しばらく話し合ったあと、僕は塾のために家に帰った。

       四

 家族旅行で東京ディズニーランドに行った。両親はいつでも行けるじゃないかと言っていたけれど、僕は遠出をする気分ではなかった。それに、いつ長谷川クリニックから電話がかかってくるかもわからなかった。というのも、僕は正規の患者ではないので、あちらが暇になったときだけ診察を受けることになっていたのだ。
 僕は、「愛」という名前を意識しはじめてから、より前世を知りたい欲求に駆られるようになった。そのことは、クマ先生には話していない。なぜか口に出すのがためらわれた。自分だけの秘密にしておきたかった。
 クマ先生とはたくさん話をした。家族構成から学校生活のあれこれまで。質問にはしっかりと答えた。
 しかし、水への恐怖感は薄れなかった。ひどくはならないが軽減もされなかった。
 クマ先生は我慢強く原因を探っている様子だった。精神安定剤はあまり処方したくないというのが彼のモットーらしく、僕はいつも手ぶらで行き手ぶらで帰らされた。なんでもかんでも薬に頼ってはいけない、とクマ先生は言っていた。薬は一時的なものであり──ときには必要な場合もあるが──問題の根幹をやっつけるには到らない、と。
 診察のない日は河名や橋本、翔ちゃんと会い、夕方になると塾に行った。多摩川の花火大会を見て、スイカをたらふく食べ、クーラーをガンガンきかせた部屋で本を読みあさった。それなりに充実していた。


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