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タイムマインド(潤一編)(15)

 河名は昼過ぎには帰った。別れ際に「また来ていい?」と聞かれ、僕はうなずいた。彼女は満面の笑みをたたえたまま自転車に乗り、さっそうと去っていったのだ。
 マンションの七階に戻るなり、ケータイが青く発光していることがわかった。着信履歴を見る。翔ちゃんのうちからだった。
 僕は通話ボタンを押した。
「おう、潤か?」
 翔ちゃんの威勢のいい声が聞こえた。
「どうしたの」
「何が、どうしたの、だよ。前世療法を受けさせてやるって言ってたじゃん。だから、これからうちに来いよ」
「今から?」
 びっくりした。
「明日はだめなの?」
「急に予約がキャンセルになってさ、親父の手があいたんだ。うちのクリニックはあまりうまくいってないけど──でも、暇じゃないからな」
 僕は黙り込んだ。
「なんだよ、これから用事でもあるのか?」
「別にないけど……」
「じゃあ、診療所に集合な。待ってるから来いよ」
「え? ちょっと──」
 自己完結型の翔ちゃんは一方的に約束を取り決め、電話を切った。
 ケータイのディスプレイを見つめながら、どうしようか、考えた。答えは簡単には見つからない。しょうがない――長谷川クリニックに行ってみることにした。どうしても受けたくなかったら、そのときに断ればいいのだ。
 僕はケータイをジーンズのポケットに突っ込み、また出かけようとした。
「どこに行くのよ?」
 リビングからお母さんの声が飛んできた。
「……翔ちゃんのうち」
「もしかして、ゲームセンターとか、いかがわしいところに行くんじゃないでしょうね。翔太君に悪い遊びを習っちゃだめよ」
「行かないよ。新しいゲームを買ったらしいから……ゲームはゲームでも、家でやるゲームだから」
 僕は靴を履いて、後ろを振り向いた。お母さんが廊下の突き当たりに立っていた。
「塾には遅れないようにね」
 うん、わかってる。僕は従順な息子を演じてみせる。これはさわやかなホームドラマなのだから、設定を壊すことはできない。
 マンションを出て自転車置き場から自転車を出し、多摩川の住宅地を駆け抜けた。こぢんまりとした畑で野菜を収穫しているおばあさん、コンビニから出てくるカップル、杖をついて立ち止まっているおじいさん――いろいろな人たちの横を通り過ぎ、商店街に入った。
 そして商店街の一角にある雑居ビルへと向かった。自転車に鍵をかけ、薄暗い階段を上がる。長谷川クリニックは三階にあった。全面ガラス張りのドアを引き中に入ると、手前のスツールに翔ちゃんが座っていた。僕を見るなり、よお、と彼は手を上げた。
「親父、診察室にいるから行って来いよ」
「もうはじめるの?」
「なんだよ、茶ぐらい出せって言いたいのか」
「そうじゃないけど、心の準備というか……」
「ただ前世を見るだけだろ。そんなに構えるなって」
 翔ちゃんは砕けた口調で言った。
「前世を見るだけ、って。すごいことじゃん」
「うん、すごいよ。でも、俺は親父に、『余裕を持たせるためにすごくないと言っておけ』って言われてるからさ。だから、すごい、とは言えないんだ」
「言ってるじゃん」
 なんだか頭が痛くなってきた。翔ちゃんのお気楽さにはうんざりする。
 翔太。背後から野太い声が聞こえた。
「久野君が来られたのか?」
 振り向くと、そこには大柄な──というか、肥満体のおじさんが立っていた。ぼさぼさの髪、頬の肉に押し上げられてしまった目、つぶれた鼻、肉厚な唇、顎を覆う髭、白衣からはみ出たお腹。翔ちゃんのお父さんだ。以前見かけたときより、もっと太って、もっと髭が伸びているようだった。まるで熊みたいな人なのに、名前は意外にも優太という。僕は、ひそかに「クマ先生」と呼んでいる。
「どうも、おひさしぶりです」
 僕は軽く頭を下げた。


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