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室内

朝、目ざめたときからなんとなく手ごたえのなさを感じてはいた。手足がしびれている、というよりも、手足がしびれを匿っている。擁護している。しびれは手足の庇護のもと、「わたし」という存在のふたしかさの値を値踏みするように、わたしに「おまえはいくらか?」といいつのるしまつで、どこにも、せせら嗤いの情さえもない。そして、あろうことか、きのうの夜から鳴りつづく耳鳴りが手足のしびれと相俟ってねじれていくのを、耳孔と、その周辺を彷徨うねむりのなごりが、まるで紐帯を申しでるかのようなしぐさで、合いの手をいれるかいれないかのような、そんな思案をめぐらすのが、いやでたまらない。からだのなかでひとつでもなにか不和が生じると、それに拍車をかけるわたしの意識のあざとさ、みにくさがある。それが目ざめの不快さからきているのかどうかは、わからない。これはいったいどういったことか。なんどもなんども、くりかえしくりかえし、「存在」を書き損じるようなものか。あるいは「存存」とか「在在」とか、いっこうに完成しない羅列にせめたてられているのか。「存存」や「在在」の羅列のなかにふと「存在」の二文字を発見する瞬間があるとすれば、わたしはことばをわすれてもいいとさえおもうのだが。



室内(1)


室内(2)



いまはもう見ないしあまりやっていないが、むかしはよくテレビの野球中継を見ていた。野球そのものに興味があったのではなく、打者がボールを打ち返した瞬間、観客席を見るのが好きだった。ホームラン級のあたりがあればおおくのひとは打球のゆくえに注目するが、なかにはコーヒーかビールをこぼして怒られているひともいるし、腕を組んだままうたた寝しているひともいる。ときどき、いちゃついているカップルが映ることもあった。海外では野球場で指名手配中の男が大画面に映しだされ、ほどなく捕まった、なんてこともある。むかしはしょっちゅうプロ野球の珍プレー好プレーなる番組があり、酔っ払いやらなんやらがとりあげられ笑いものになっていたが、ぼくが見たかったのはそんなのではない、ただたんに野球観戦にきたひとたちの一喜一憂に興味があったのだ。



室内(3)


室内(4)



泣くときは、なるべく声をたてないよう注意しながら泣いていた。祖父の気に入りの花瓶を割ってしまったとき、祖父はぼくを見下ろしたまま、裏庭のみそ蔵のほうをゆびさして「あそこにはいって反省しなさい」といった。ぼくは「はい」とこたえてみずからみそ蔵のなかにはいり、なかから鍵を閉めた。
すっかり日が暮れたころ、祖母がやってきて「もうおじいさんは怒っていないようだからでてきなさい」といった。ぼくは「はい」とこたえて心棒をはずし、みそ蔵の外にでた。



室内(5)




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