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タイムマインド(潤一編)(8)

 頬に軽く痛みが生じた。
 おい! おい! と僕を呼ぶ声がする。翔ちゃんではなく、大人の声だった。背中がひんやりとしている。たぶん、プールサイドのタイルの上に寝転がっているのだろう。
 久野君、という河名の声も耳に入った。心配してくれているみたいだった。格好悪いところを見せちゃったな、このまま目を覚まさない方がいいかな、と内心苦笑する。僕は夢心地だった。
 また頬をたたかれた。今度は目の前の暗闇が赤く光るほど強かった。僕は学校に遅刻しそうになるときのような素早さで、上体を起こした。おお! と数人の声がした。まわりを見渡すと、僕は何人もの大人に囲まれていた。
「どうだ、つらくはないか?」
 すぐそばで膝をついているお兄ちゃんが言った。トランクスタイプの海水パンツをはいている。短髪で整った顔だち。輪郭はほっそりとしている。何かスポーツをしているのか体つきがいい。
 僕は彼にうなずいてみせる。
「そうか、よかった」
 お兄ちゃんは口の両端にしわをつくって笑った。
「助けてくれたんですか」
「まあ、近くにいたから」
「ありがとうございます」
 素直に言えた。
「これからは危険な遊びなんかするなよ。君の友だちにも、ちゃんと注意しておいたから」
 お兄ちゃんは後ろの方を見た。そこには肩をすぼめた翔ちゃんが立っていた。怒られたせいか、ただ水で痛くなったせいか、目が赤い。となりには橋本や河名もいる。みんなしょんぼりしていた。
「ほんとにこの人が言うとおりだよ。なんであんな危険なことをしたんだ?」
 近くにいるジャージ姿の男性が声を張り上げた。険しい顔つきだった。首に笛をぶら下げているので、たぶん、ここの監視員だろう。
「命を落としかねない事故になっていたかもしれないじゃないか」
 すみません、と僕は頭を下げた。
「まったく、無事だからよかったものの──もう少しここのマナーを守ってもらわないとね」
「あのね」
 とお兄ちゃんが割って入った。
「あなたこそ、何やってたんですか」
「は?」
 監視員は間抜けな表情に変わった。
「あなたの役目はマナーを守っていない人を注意することでしょう? 事故を未然に防ぐことでしょう? この子と、もう一人の子とが、飛び込み台の上でじゃれ合っていたのを見なかったんですか? いったいどこを見ていたんですか? まあ、女性ばかり見ていたんでしょうけどね」
 監視員はみるみるうちに顔を紅潮させたけど、反論はなかった。これでは、はい、そうですと白状しているようなものだ。周囲から失笑が漏れた。
「今度からは、十分に気をつけろよ」
 お兄ちゃんは僕の頭をぽんぽんとたたいて立ち上がった。
 僕は去っていく彼に、名残惜しさを感じた。このまま名前を聞かずに別れたくはなかった。なぜだろう、お兄ちゃんになつかしい感情を抱いていた。
「待って!」
 僕はお兄ちゃんに駆け寄った。
「あの、お礼がしたいから、電話番号を教えてください」
「いいよ、気をつかわなくても」
「いや、ぜひお礼をさせてください」
 僕はむきになってくいさがった。自分ですら把握できない気持ちが、胸をつついたり蹴ったりしていた。
 わかった、とお兄ちゃんは諦めたように言った。更衣室に行き、肩掛け鞄からシャーペンとメモ帳を取り出した。はい、と、紙切れを渡してくれた。
「別に、お礼とかしなくてもいいよ」
 お兄ちゃんはシャワー室に入っていった。
 僕は紙切れに書かれたケータイの番号を見つめた。名前は書かれていなかった。


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