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タイムマインド(潤一編)(6)

 一旦みんなと別れて、マンションに帰った。玄関のドアを開けると、三和土にお父さんの革靴が置いてあった。今朝、数日前から風邪をこじらせているお父さんが会社に電話していたのを思い出した。たぶん、あれは休暇を取るための電話だったのだろう。
 おかえり、とエプロン姿のお母さんが出てきた。今日は肩まである髪に軽くウエーブをかけている。出かける予定がない日でも、お母さんは身だしなみに余念がない。
「ねぇ、お父さん、だいじょうぶ?」
「うん……まだ熱が下がらないみたいよ。でもちゃんとお薬を飲んだし、だいじょうぶ」
 なんとなくお父さんが子ども扱いされているようで、僕は笑ってしまった。
 両親はすごく仲がいい。口喧嘩はするけど、翌朝には仲直りしている。二人とも四十を越えているくせに、新婚ほやほやのようだ。
 僕はリビングに行き、教科書やプリント類でぱんぱんにふくれたランドセルをテーブルに置いた。
「さてと、拝見いたしましょうか」
 お母さんは意地悪な目を僕に向けた。通信簿を見せろと言っているのだろう。別に恥ずかしい成績ではないので、僕は胸を張って差し出した。今ごろ翔ちゃんはいやいや見せてるんだろうな。
 お母さんが満足げな表情で通信簿を見ているのを横目に、僕は洋室に向かった。
 ドアノブを引くと、お父さんがベッドの上でぐったりしていた。額にはおしぼりが載っている。見るからに顔が熱そうだった。冷房がきいているが、効果はたいしてないみたい。
「おう、おかえり」
 お父さんは弱々しく笑った。健康そうにふっくらしていた顎のラインも、ひどくやつれて見える。体格のいいお父さんだけど、今なら腕相撲をしても勝てそうだった。
「心配してくれているのか」
 と聞かれ、僕はうんうんとうなずく。早くよくなってねと言いたいが、照れくさくて口には出せない。親がうざったいと言うやつもいるけれど、僕はお母さんもお父さんも大好きだった。
 お父さんの大きな手が僕の頭に載った。そんなことをすると余計心配になるじゃん、と僕は悲しくなった。大げさだけど――お父さんが死んじゃったらどうしようと不安になった。風邪が悪化して死んでしまうケースだってあるはずだ。
「なんでもっと早くお医者さんに行かなかったの?」
 風邪気味でも仕事をつづけていたお父さんに、僕は非難めいた口調で言った。
「いつもの洟垂れだと思って、油断してたんだよ」
 洟垂れとは、アレルギー性鼻炎のことだ。僕にはよくわからないが、ときどき鼻水が出てしかたがない日があるらしい。昔お父さんには、洟垂れ小僧というあだ名がつけられていたそうだ。授業中や彼女とデートしているときに鼻水が垂れて垂れて格好悪かったと、いつだったか話してくれたことがあった。ちなみに、映画館でずーずー音を立てて鼻をすすっていたのが原因で、最初の彼女とは別れてしまったらしい。でも、そんなお父さんのことを、──三番目の彼女である──お母さんは、「鼻の赤いトナカイさんみたいだった」と言っていた。
 その会話を聞いてからというもの、この夫婦は仲がいいのだなと、僕はますます思うようになった。
 しばらくの間とりとめもなくお父さんと話していると、お母さんに呼ばれた。お昼ご飯ができたのだ。
 リビングに行き、ダイニングテーブルについた。目の前にはカレーライスとにこにこ顔のお母さん。僕は甘口のカレーを口につめ込みながら、これから翔ちゃんたちと市民プールに行くということを告げた。とりわけ河名と橋本の名前を出すと、お母さんの顔がよろこびに広がった。恥ずかしかったけれど、隠し事は禁物だという我が家の決まりにしたがって、僕は言ったのだ。以前、お母さんのネックレスを壊してしまったことがあって、黙っていたらずいぶんと叱られた。それ以来、僕は秘密を隠しとおす勇気も気力もなくなった。
「で、愛ちゃんと梨恵ちゃん、どっちがいいの」
 お母さんは直球のもの言いだ。
「別に」
 僕は首をかしげて答えた。河名愛の方が好みだし、彼女の姿を思い浮かべるだけで心臓が乱れる。だけど、好きかどうかと聞かれると、微妙だった。いまいち「好き」がわからない。
「あのね、今ね、お父さんと旅行の計画をしているの。潤君はどこか行きたいところある?」
 毎年夏休みになると我が家は旅行に出かける。まだ海外には行ったことがないけど、最近では、北海道で札幌ラーメンを食べたり奈良で鹿を見たりした。たいてい両親が話し合って決めるのだが、今回は僕に選ばせてくれるのだという。
「じゃあ、考えておくよ」
 自然に笑みが浮かぶ。自分の知らない場所を思うだけで心がはずむ。今年も楽しい夏休みになりそうな予感がした。
 カレーライスを平らげ食後にバニラアイスを食べた。新製品なのか、食べたことのないアイスだった。僕はもう一つ食べたくなり、食器を流しに持っていったついでに冷蔵庫を開けると、お母さんに止められた。
「だめ。これはお父さんの分だから」
 ホームドラマに登場する、やさしいお母さんそのものの口振りだった。
 前に、親戚の伯母ちゃんが遊びに来たとき、お父さんとお母さんを見てこう言った。ドラマを観ているみたいだわ、と。僕もそう思う。
 でもその反面、ふいに、ここはつくられた世界じゃないのかなと疑ってしまうこともある。お父さんとお母さん、二人とも「役者」に見えるのだ。
 自分の部屋に行くと汗ばんだ半袖シャツを脱ぎ捨てて、新しい服に着替えた。お気に入りのチェック柄の上着をはおるとケータイをジーンズのポケットに突っ込んで、水着の入った手提げ袋を持ってマンションを出た。お父さんより高熱を発する太陽に、肌がじりじりと焼かれる。
 自転車置き場で自転車を取り出し、さっそく待ち合わせ場所である市民プールに向かった。


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