FC2ブログ

記事一覧

タイムマインド(潤一編)(4)

「今となっては武勇伝っていう感じだよ」
 僕は余裕を見せて言った。
「何が武勇伝だよ。おまえが落ちるところを思い出すだけで、俺の方が冷や冷やするっていうのによぉ」
 翔ちゃんはあきれたような表情だった。
「まあ、トラウマにならなくてよかったな」
 僕は、ふと立ち止まった。どうしたんだよ? と翔ちゃん。
 理科室はもう廊下の突き当たりに見えている。
「トラウマっていうほどのものでもないんだけど……一つだけ気になることがあるんだ」
 僕は言った。
「バスが、嫌いなんだよね」
 ああ、そうだったな、と翔ちゃんは相槌を打つ。
「修学旅行のとき――バスに乗った時点で、おまえ、異常にふるえはじめたもんな。顔は女みたいに白かったし。俺さぁ、おまえがバスの中で凍え死ぬかと思ってビビッた」
 そうなのだ、僕はバスが嫌いだった。乗ると、体が極度に拒絶するのだ。低学年のとき、修学旅行中のバスの中で、僕ははじめてバスに恐怖した。いきなりひどい寒気が全身に走ったのだ。先生は、酔い止めの薬に何か問題があったのでは? と言っていたが、原因はわからずじまいだった。結局、僕だけが先生の車に乗せてもらって移動した。
 それ以来、修学旅行では先生の車に乗り、バスを避けるようになった。あいにく肺炎にかかって行けなかったこともあった。今年も、五月に旅行があったけど、いっしょに暮らしていた父方のお祖母ちゃんの葬式と重なったせいで参加できなかった。
 なぜバスが嫌いなのかはわからない。子どものころにバスの中で何かあったかと、お母さんに聞いたこともあったけれど、憶えていないらしい。
「たんなる体質だと思うけど、今でも気にはなるんだ」
 僕は言った。
「……バスかぁ」
 翔ちゃんは真剣な顔つきでつぶやいたけど、すぐににやりと笑った。
「俺の親父に頼むか」
「やだね」
 僕はわざと苦い顔をつくった。
「嘘だよ、嘘。真に受けるなって」
 僕は、わかってるよと返事をして笑った。
「久野君、長谷川君、何しているの。早く教室に入りなさい」
 先月、誕生日を迎えて、「三十路、三十路」とヤジられている──でも、僕はまだまだ若いと思っている──女の先生が、理科室の引き戸越しににらみをきかせていた。
「やべっ、早く行こうぜ!」
 翔ちゃんが慌てて走り出す。
 各教室から先生の声が響いている。ゆるやかに午後の授業がはじまった。
 やっぱり平和だ、と僕は内心苦笑した。


スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント