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タイムマインド(潤一編)(3)

 二年前――小学校四年のとき──のことだ。夏休みに、僕は翔ちゃんといっしょに海に行った。保護者は僕の両親だった。
 太陽が激しく照りつける日で、浜辺には多くの人がいた。水着姿の僕と翔ちゃんは、波打ち際で遊んだ。菓子の包装紙や錆びついたキーホルダーを波がさらっていった。両親はパラソルの下でほほえんでいた。大きな波を待つサーファーやビーチバレーをやっている学生らしき人たちや、女性に声をかけているお兄さんたち……。
 しばらくして翔ちゃんが高い場所に行ってみようと言い出した。僕は何も考えないままうなずいた。大勢の人が行き交っていたので、僕たちを見失ったのだろう、両親に引き留められはしなかった。
 林の中を抜け、僕と翔ちゃんは崖のある方へ向かった。
 海辺にいるときよりも潮騒がよく聞こえた。カモメの鳴き声も。風が海藻などのにおいを運んできてくれた。僕は崖から身を乗り出して青々とした海を眺めた。どこまでもつづいていそうな青色だった。テレビや写真で美しい海を見たことはあるが、それに匹敵するくらいきれいだった。
 数メートル先の海に、僕は吸い込まれそうになった。
「おい、危ないぞ!」
 翔ちゃんの焦りと困惑が混じった声が聞こえた。
 僕の意識は現実に戻ったけど、もう、遅かった。体が空中に投げ出されていた。全身にしびれのような恐怖が走ったのを、おしっこがちびったのを、今でも憶えている。何も考えられないまま、僕は海に向かって落ちていった。空がどんどん離れていった。そのうち、どっちが空で海なのかよくわからなくなり、気絶した。
 夢を見た。ふしぎなことに、自分は一切、出てこなかった。僕ではない男性――その男性と、その人の恋人らしい女性が、手をつないでいる夢だった。
 二人が手をつないでいるという状況と、山に向かっているということだけは、ぼんやりと記憶している。ただ二人が歩いているだけの内容。女性の横顔は悲しそうで、だけど、悲しみを通り越してやすらいでいるようにも見えた。
 やがて男は口を開いた。
 愛──。
 そこで、僕は深い眠りから覚めたのだ。
「だいじょうぶか!」
 目の前に知らないお兄ちゃんがいた。レスキュー隊の人だったか、通りすがりの人だったかは、今もわからない。
 僕は喉に溜まっていた水を吐き出し、咳き込んだ。すぐそばにはお父さんもお母さんもいた。人も何人か集まっていた。よかった、と誰かが言った。翔ちゃんもいて、すすり泣いていた。僕は翔ちゃんの泣き顔を見て、なぜか安心した。幼稚園からのつき合いだけれど、一度も見たことがなかったからだ。僕はいつも泣かされる側だったから。
 あとから聞いた話だけど、僕が海に落ちるのを目撃していた女性がいたらしく、その女性の悲鳴で、周囲に知れ渡ったらしい。翔ちゃんはあわてふためきながらも僕の両親のところにすっ飛んでいってくれたらしい。そんなこんなで、僕は今も生きていて、普通に小学校に通い、普通に授業を受けているというわけだった。今となっては、大して特別でも何でもない平凡な臨死体験だったと思う。
 かといって、恐怖心は簡単には消えてくれず、何週間かは水が怖かった。水道から流れる水を見るだけで、喉が圧迫され、溺れそうな感覚に襲われた。お風呂も、だめだった。浸かっていると、そのうち、浴槽の中で溺死している自分の姿を想像してしまうからだ。落ちる夢も頻繁に見た。崖から海まで真っ逆さまのストレートな夢、その夢を見ると、かならずと言っていいほど全身に浮遊の感覚が襲ってきて、目が覚めた。両親は精神科医に診てもらおうかどうしようか、深刻そうに相談していた。
 しかし、結局は時間が解決してくれた。僕は知らず知らずのうちに水を見ても平気な体に戻った。いわく付きの墓地で肝試しするより怖いひと夏の体験、と割り切ってしまえば話のネタになるから、まあいいか、などと気楽に考えられるようになったのだ。僕はあんがい、翔ちゃんより図太い性格かもしれない。


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