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タイムマインド(愛美編)(32)


       十一

 私たち三年生は受験勉強に追われながら、九月には秋季大運動会、十月には高校説明会や中間テスト、と、慌ただしく月日を消化していった。みんなは最後の中学校生活を満喫しているようでもあり、その反面、別れという切なさもあった。私の目には平凡だった日常が急激に輝いて見えはじめていた。
 くじ運の強い私は、前期とまったく同じ窓際の席に選ばれていて、土曜日の国語の授業を聞き流していた。色気むんむんの女教師の、鼻にかかった声が教室中に響いていた。
 どのクラスかわからないけど、校庭では体育の授業が行われているようだ。何組かのグループに分かれてミニサッカーをやっている。
「早川さん。早川愛美さん」
 突然、先生の声。
「は?」
「『は?』じゃありません」
「はあ……?」
 どっと笑いが起こった。私は恥ずかしくなってうつむいた。何も考えずに口をすべらしてしまった。
「ぼうっとしてちゃいけませんよ」
 先生はやさしい口調で叱り、
「じゃあ、つづきをお願いね」
 ぼうっとしていたのだから、どこが「つづき」なのかさっぱりわからない。私がおろおろしていると、真ん中あたりの席にいる美歩が教科書を掲げ、その一部分をシャープペンシルでたたいた。彼女が指し示しているところは、志賀直哉の「赤西蠣太」の冒頭だった。なるほど、そこを朗読しろということらしい。私は立ち上がり、緊張しながら読んだ。
 先生の「はい、よろしい」という声に、ほっと一安心した。ノートに「助け船、センキュー」と書いて美歩に見せた。美歩は「恋する乙女はつらいねぇ」と書かれたノートを軽く持ち上げた。
 彼女は、一学期のはじめごろに同じようなやりとりがあったのを思い出して、そのときの台詞をわざと書いたのだろう。私はなんだかふしぎな気分になった。
 近野君が屋上にやってきて、私にどの委員になるか聞いたとき、あれ以来、美歩との関係はぎくしゃくしたままだった。長い長い不和がつづいているのだ。私は何度か話しかけたりもしたけれど、彼女は生返事ばかりでまともに受け答えしてくれなかった。私は必死に近野君とは何もないと主張したが、信用してもらえなかった。
 だけど、たった今、私は彼女との友情の復活を確信した。
「国語の時間は、助けてくれてありがとね」
 放課後、自転車置き場から自転車を出している美歩に、私は明るく声をかけた。彼女は少し恥ずかしそうにうつむいてから、こくりとうなずいた。
「あれぇ、美歩らしくないなぁ」
 私はがんばってもう一押しした。
「さては、美歩の体を乗っ取った宇宙人だな」
「そんなわけないじゃん。くだらなさすぎだよ」
 彼女はからからと笑った。目の端に光るものが見えた。じょじょに涙ぐんでいくのがわかり、私までもらい泣きした。
 ひとしきり笑い、泣き合った私たちは自転車に乗って、いっしょに帰ることにした。何年ぶりかと思うほど、なつかしい気分になった。一人で通う通学路は空しく、かといって前方に美歩がいたりすると、距離を保つのに苦労した。
「仲直りできて、よかったよ」
 国道沿いを走りながら、私は本音を言った。
「ごめんね。あたし、あんがい嫉妬深いから」
 美歩が苦笑いを浮かべた。
「本当に私と近野君はそんな仲じゃないから」
「うん、わかってる。わかってるんだけど、どうしても許せなかった。なかなか近野君に近づけない悔しさを、愛美にぶつけてしまったんだと思う」
「私も応援するからさ、これからがんばろう!」
 彼女は、うん、と力強くつぶやいた。
 私は、がんばれー、と片手を高く突き上げた。
 スカートの裾が風にあおられる。最近オープンしたうどん屋の駐車場には多くの車が停まっていた。昼前のこの時間帯、私のおなかがグウと空腹を知らせた。
「来週は文化祭だね。惣次君はまだ退院できないの?」
 ずっと気になってたんだよ、と美歩は言った。
 そうなのだ。もうすぐ退院できると聞いてから、二ヶ月も経っている。足のほかにも、どこか悪い病気にかかっているのだろうか。
 ここ三週間ほど、私は病院に行っていない。ちょっと待ってて、と惣ちゃんに言われたからだ――早川の目の前で車椅子を自在に操って驚かせたいから待ってて、と。あの言葉は本当だろうか。もしかすると、私に心配をかけさせたくないために言った、嘘なのではないか。
 ──惣ちゃん、早く元気な姿を見せてよ。
「愛美!」
 と、美歩が大声で叫んだ。
 私ははっとして、反射的にブレーキをかけた。クラクションが鳴らされた。重層的な走行音が間近に迫り、瞬間、目の前をトラックが通り過ぎた。
 ぼうぜんとしていた私は、しばらくして体がふるえていることに気づいた。
「だいじょうぶ?」
 美歩がとなりに来て自転車を止めた。
「ぼけーとしたまま、車道に飛び出しちゃうんだから、びっくりしたよ」
「ちょっと……考えごとをしてて」
「惣次君のことでしょ?」
「……うん」
 私は答えた。
 呆れたのか、美歩がため息を漏らす。
 ──……惣ちゃん。君は今、何をしているの? 何を見てる? 触っているものは? そんなものなんか捨てて、私のところに来てよ。私を呼んでよ。必要だと言ってよ。その手で捕まえてよ。離さないでよ。ひとりぼっちにしないでよ!




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