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「スペース・プラン」記録展(2018.12.07〜2018.12.19)――感想、あるいはmarginal notes――

「スペース・プラン」記録展(ギャラリー鳥たちのいえ)(1)



 三島由紀夫の自叙伝的小説『仮面の告白』の冒頭には「私は生まれたときのことを覚えている」というような内容が書かれているが、ぼくの最初の記憶は三、四歳のころに見た〝鳥〟の光景だった。
 家の裏庭で遊んでいるとき、ふと空を見あげると、鳥が一羽――まるで風の予定を織るように、かなしいまでに晴れやかに――飛んでいた。なんの鳥なのかはわからない。ひとつだけ確信しているのは、ぼくはそのときたしかに〝鳥〟にたいして憧憬の念をいだいたのだった。
 それからというもの、ぼくはよく空を見あげ、〝鳥〟をさがすようになったが、いくら鳥を見ても「出合いなおす」ほどの鮮烈さ、切実さはなかった。時間の経過とともにすこしずつ最初の〝鳥〟の印象が色あせていくのを黙って見すごすしかなかった。小学校にはいるころにはもう鳥は「鳥」であった。
 ぼくたちはしょっちゅうおもいでや記憶、経験の〝あわい〟にわすれものをする。いったいどこでなにをわすれたのか、おもいだそうとしてもおもいだせない。生きていくにはあまり必要のない「もの」や「こと」のなかにこそ、じつは生きるうえでたいせつな気づきがあるようにおもうのだけれど。
 あるいはほんとうにたいせつなものには名前なんてないのかもしれない。〝鳥〟はいまやぼくのなかの、精神の梢のようなところでひそやかにさえずっているのかもしれないし、ぼくじしん、空に放ったときの――いちばん最初の――視線を回収するのに躍起になっていて、まだじゅうぶんにじぶんとむきあうことができていないせいかもしれない。
 いずれにせよ、ぼくという人間がまだ生きてここにある以上、ぼくはこの存在を賭してでも〝鳥〟をさがしつづけなければならない。



「スペース・プラン」記録展(ギャラリー鳥たちのいえ)(2)



 いま、鳥取市本町一丁目のギャラリー鳥たちのいえで「スペース・プラン」の記録展が開催中である。スペース・プランは、谷口俊(一九二九~)、フナイタケヒコ(一九四二~)、山田健朗(一九四一~)らによって鳥取で結成された前衛芸術家集団で、一九六九年の第一回展以降、同市内各所で一九七七年まで十三回の展覧会をおこなったという。一九八五年生まれのぼくにとっては、やや伝説的、語り草的な集団であり、〝未知〟の集団でもあった。
 会場にはいってまっさきにおどろいたのは、ぼくが長年、さがしもとめていた〝鳥〟の気配を感じたことだった。記憶のかたすみに追いやっていた――というか、どこをさがしても見あたらなかった――あの〝鳥〟の光景が、まざまざとよみがえり、ぼくの胸をせつなくした。
 今展では、現存する記録写真や印刷物、映像などが展示されている。話題を呼んだ「空間化計画展」(六九年四~五月)や「鳥取現代美術野外フェスティバル」(七十年十~十一月)といった実験的なこころみの全貌を知ることができる。
 写真におさめられたスカイブルーの正方形の箱をじっと見つめていると、一瞬、その箱の表面になにか鳥影のようなものがよぎった。たんなる目の錯覚ではない、ぼくはたしかに〝それ〟を感受したのだ。
 会場にもまた、悲哀のあるオブジェが横たわっている。
 悲哀――。
 突如浮かんだそのことばに、はっとする。ぼくはなぜ、そのことばをつかったのか。
 もしかしたら一見、無機質なものにも、〝うめき〟があるのかもしれない。たとえば、ひそかに正弦波のようなものを発しているのかもしれない。だからこそ、ときには場と調和し、ときには不協和音をひきおこしてしまうのだろうか。

   *

(…………………………透徹した論理によって配置された円形たち、正方形たちは……未完成でも完成でもない……自己完結しているようでいて、そうではない……自己組織化しているようでいて、そうではない……世界との接続を遮断しているようでもあるし、現代のわれわれの関係性をうたっているようにもおもえる……自然――という精神性――に、違和――という異物――を混入させるのは、なんという凄まじい葛藤を生むのだろう………語りえないものの極致、といっていいかもしれない……………はたして〝場〟はなににうめくのか……………………きっと、〝ひと〟にだ……………無生物主語的な筐体が、あたかも人間的な苛烈さでうめき声をあげる………そう、われわれにたいして「存在をたしかめよ」といっているのだ…………………………宇宙はビッグバンではじまった………そのときの爆発は、〈ぼく/わたしは生きられる。〉という秩序をつくった………そして、ぼくたちはいまもなお〈ぼく/わたしは生きられる。〉という、ききとれないメッセージをうけとりながら、生き生かされている………どこか遠くに置きわすれた不分明な身分証明や態度決定を、もしかしたらここの、このかたちたちが請け負っている、のかもしれない……………たとえば、無名性を語ること………非存在による……経験や感覚の置きかえや組みかえ……だとすれば、「もの」にも「もの」なりのダイアローグがあるのか………「もの」としての神話………神のいない……日付のない……方位の粧い………夢読みの技法………同化と異和………対立と矛盾………逸脱や超越………〝いいよどみ〟……………………インターフェイスそのものが主題になり、……それ以外のなにものをも意味しないまま………たえまなく形成されていく無辺のテクスト……………………………………………………………………………………………………………………………)

   *

 かたちとは、なんだろう。



「スペース・プラン」記録展(ギャラリー鳥たちのいえ)(3)



 おもいでをなつかしむとき、そこには明度があり、鮮度がある。連続性のあるものもあれば断片でしかないものもある。もっと深く記憶の底をのぞきこみながら目いっぱい腕をのばしていくと、色も音もにおいも消え、あるのは――古代人の壁画のような――かたちだ。
 まなざしが、ゆびさきが、かたちにふれる。
 それは、それこそ、原風景ではないか。
 そしてそれはもう、記憶ではなく、記録なのではないか。
 かたちとは、最小限に切りつめた記録――。
 そんなふうに考えると、記録とは、記憶以上にたしかで〝あたらしい〟ものだ。表面的には均質に見えるものの内部でも、さまざまな分化へむかう膂力がうごめき、せめぎあっている。いつ細胞分裂がはじまるのか――あらたな秩序が生まれるのか――わからない(しかし、そういった未決定性を生きているのは、ぼくたちだっておなじだ)。
 ぼくは右へ左へ、いったりきたりしながら、なんともふしぎな感覚をおぼえた。



「スペース・プラン」記録展(ギャラリー鳥たちのいえ)(4)



  すべての見えるものは見えないものに、
  聴こえるものは聴こえないものに、
  感じられるものは感じられないものに、
  付着している。おそらく、
  考えられるものは考えられないものに、
  付着しているだろう。(ノヴァーリス「光についての論文」二一二〇節、『花粉』所収)

 見えないものに目をこらし、聴こえないものに耳をすます。なんどもなんども、くりかえしくりかえし意識をかたむけるうちに、見えないもののなかにある〝まなざし〟や、聴こえないもののなかにある〝音〟をとらえられる瞬間がおとずれる。それこそが、見ること、聴くことの本質ではないか。
 ぼくはずっとあの〝鳥〟をさがしつづけているが、さがしつづけているうちにありとあらゆる種類の色やかたち、においや感触から想起されるにちがいない。あの〝鳥〟はたえずぼくに見ること、聴くことの本質を教えてくれるが、ぼくはそのうちきっと、わすれてしまうだろう。
 それでも、そこにわすれそびれるなにかがあるのは――日常のなかに埋没してしまわないのは――あるいは、芸術のおかげかもしれない。



「スペース・プラン」記録展(ギャラリー鳥たちのいえ)(5)



◇「スペース・プラン」記録展 −鳥取の前衛芸術家集団1968-1977−(ギャラリー鳥たちのいえ)
http://birdsgallery.org/exibit/690

*ちなみに、冒頭文は、以前地元の新聞(日本海新聞)に掲載したのを加筆修正した完全版です。なぜこの散文を冒頭にもってこなければならなかったのかは、最後までお読みいただければわかっていただけるかとおもいます。


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