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タイムマインド(愛美編)(17)

 学校帰り、偶然あのおばさんに会った。スーパーの前の十字路で信号待ちの彼女を見かけたのだ。ベージュのブラウスに紺のズボンという服装だった。向こうは「あら」と気さくに声をかけてくれた。
 実を言うと、私はおばさんの前で泣きに泣いた日以来、顔を合わせるのにためらいがあった。人前であんなに泣いたのははじめてだったから、冷静になればなるほど恥ずかしくなって、なかば後悔していた。だから、家に行こうと思ってもなかなか行けなかった。
 でも、おばさんの笑顔を見た瞬間に、ああ、やっぱり泣いてよかったな、と、妙に納得してしまった。
「おひさしぶりです」
「こんなところで会うなんてね。学校帰り?」
 私は、はい、と返事をした。
 歩行者用の信号が青になり、私たちは自転車を押しながら渡った。
「そうだわ、お茶しましょう。おいしいコーヒーが飲めるところがあるのよ。もう中学生だもの、コーヒーぐらい飲めるわよね」
 おばさんは歩道の三十メートルほど向こうを見た。
 こぢんまりとした雑貨店があり、その上に喫茶店がのっかっている。一階も二階も全体的に細長い造りになっていて、地味な看板や外壁がかえって洒落っけをかもし出している。そこのすぐとなりは、私の母の実家である。
「あ、私もあそこのコーヒーは好きです。ミックスジュースは異常にまずいですけど」
 ふふふ、と、おばさんは口もとに手を持ってきて上品に笑った。私は、きれいだな、と見とれてしまった。
「じゃあ、行きましょ」
 背筋のぴんと伸びたおばさんは一人でどんどん進んでいった。
 重い樫材の扉を引くと、小気味いい鈴の音。鼻の下に髭をたくわえたマスターが、いらっしゃい、とほほえんで言った。店内は、カウンターに二人、テーブルに一組のカップルがいるだけで、ゆったりとくつろげそうだった。
 私たちは窓辺のテーブルに座った。私はコーヒーに決め、おばさんはソファーの横に買い物袋を置きながら、ミックスジュースにしようかな、と言った。どれほどまずいのか挑戦するつもりらしい。私はマスターに声をかけ、注文した。
 近くに「幸福の木」と記された観葉植物がしつらえられていて、中央の天井には二本のファンがまるでそよ風に吹かれるようにまわっていた。目の前にコーヒーカップが置かれ、その重みのある音で、私は我に返った。
 おばさんはにこにこしたまま、ストローに口をつけた。私は角砂糖を一個だけ入れて、コーヒーを飲んだ。香りからしてインスタント物とは比べるまでもなく、おいしい。
「なるほど。うちの負けだわ」
 おばさんは言った。まずかったのだろう。
「鉄っぽい味がするんですよね」
 マスターが向こうのカップルのところに行っているのを確認してから、私は小声で言った。
「この店、ゆいいつの欠点ね」
 おばさんは口直しに紅茶を注文した。
 琥珀色の紅茶が届けられたあとに、
「聞いてもらえますか。前にお話しした、惣ちゃんのことなんですけど」
 と私は話しかけた。
「そうそう、うちも心配していたの。あれからどうなったんだろうって」
 おばさんはテーブルの上に両手を組んだ。さんざん悪口をたたかれた肌色のミックスジュースは脇にどけられている。
 実は……、と言いよどんでから、
「惣ちゃんのお母さんに嫌われてしまいました。たぶん、惣ちゃんにも」
「どうして……」
「惣ちゃんを、お母さんを、混乱させてしまったからです。私は無神経にも毎日お見舞いに行って、プリントや給食を渡して、そうすることで惣ちゃんがよろこんでくれると勘違いしていたんです」
 私は舌を噛んで、喉に突っかかる嗚咽を我慢した。惣ちゃんのお母さんに責められたときのことを思い出すたびに悲しくなる。だけど、もう、泣くのはやめようと思っていた。近野君に勇気をもらってから、泣いていたって何もはじまらない、それよりも今を、ちゃんと見据えようと考えられるようになった。
「惣ちゃんの足は、二度と治らないんです。立てなくなったんです。私はそんなこととは知らずに、毎日通っていました」
「まあ……」
 おばさんは眉間にしわを深く刻んだ。
「惣ちゃんはつらい毎日を送っていたと思います。治るものだと勝手に思い込んでいた私は、惣ちゃんを元気づけようとして、それがかえって彼を苦しませることになって……。今はもう病院に行ってません。でも私、ちゃんと惣ちゃんやお母さんに謝ろうと思っています。だけど、今謝りに行って迷惑じゃないかどうかわからないんです。本当は今すぐにでも会いに行きたい、許してもらいたい……」
「そこまで、惣ちゃんって子が好きなの?」
「はい」
 私にとって惣ちゃんは支柱だった。支柱がなくなれば、私という存在は崩壊してしまう。
「あなたって、強いのね」
 おばさんは目を細めた。
「え?」
「あなたのそのひたむきさは、何よりも強い武器だわ」
「違います。私は弱いんです」
「いいえ」
 きっぱりと言われた。
「あなたは逃げていない。好きな人が立てなくなって、しかも、その子のお母さんにまで嫌われちゃったら、たいていは逃げるわ。目をそむけるわ」
 私はなんて答えたらいいのかわからなくて、膝もとに視線を下ろした。
「惣ちゃんは、今は黎明期なのよ」
 れいめいき、と私は繰り返した。
「そう、今はまだ何も見えなくて不安なだけ。絶対にこれからまばゆいくらいの朝日に包まれると思うわ。その光があなただといいわね。いや、あなたが朝の光になるべきかもしれないわ」
「なれ……るかな」
「もちろんよ。あなたは朝にふさわしいわ。すてきな一日を予感させてくれる朝に」
 たった一人に向けられる朝日、はじまりの朝、か。私は、おばさんのぬくもりがこもったまなざしにまどろんだ。迷ったり悩んだりするよりは、私は自分に素直に行動すべきだと思った。それが私なのだから。
「どうなるかわかりませんが、今度の休みの日にでも、惣ちゃんのお母さんに会いに行って、謝ろうと思います。私の気持ちを伝えます」
「うん」
「私、頭が悪いから思い立ったらすぐにやらないとだめなんです」
「ふふっ。うちと似ているわね」
「見たときから、おばさんは私側の人だと思いましたよ」
「類は友を呼ぶ」
 おばさんは身を乗り出して、そう囁いた。
 ですよね、と私は噴き出した。軽口を言い合っていると、くよくよした自分が消えていくのを感じた。




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