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タイムマインド(愛美編)(14)

 体内の血がさっと引いていくのがわかった。
「……どうしてここまで来たの?」
 弱々しい声だったけど、そこには敵意がふくまれていた。
「私、どうしても初瀬君に会いたかったんです。クラスのみんなも、何も聞かされていないから心配しているんですよ」
「だからって、断りもなしに──」
「母さん、別にいいって」
 惣ちゃんが咎める口調で言った。
「いいえ、よくないわ」
 さっきからまばたきを一度も行っていないせいか目が充血している。
「惣次は、情緒不安定なの。かき乱すようなことはしないで」
「どこが不安定なんです?」
 私は反射的に言い返した。彼女は息子のどこを見て言っているのだろう。誰が見たって惣ちゃんは元気じゃん。
「あなた、何も聞かされていないでしょ」
「ええ」
「まだ何も言わないでほしいって、担任の先生にお願いしているのよ」
 ……どういうこと?
 ぱさっと音がした。床にノートが落ちたのだ。なぜだろう、手に力が入らない。
 惣ちゃんのお母さんはゆるやかな動作でそれを拾った。彼女はノートを開いてまじまじと見た。顔色が変わった。
「なんてことを書いているのよ!」
 悲鳴に近い声だった。私は肩をびくつかせた。
 惣ちゃんのお母さんは、能面がはがれたように表情をあらわにした。怒りの表情だった。
 私は釈然としない声を出した。
「いきなり……なんですか」
「これを見なさいよ、これを!」
 彼女はノートの一ページ目を私に指し示した。「惣ちゃんがまたサッカーできますように!」というメッセージと一緒に、デフォルメされた惣ちゃんの絵が載っているだけだ。これがどうしたというのだろう。私は首をかしげた。
「あなた、これを惣次に見せたの?」
「あ、はい」
「もぉ、何、勝手なことをやってんのよ」
 惣ちゃんのお母さんは涙声で言いながら髪をかきむしり、ノートを床に捨てた。惣ちゃんはうつむき加減に掛け布団を見つめている。
 ふと、室内が暗いことに気づいた。外の雨がどしゃぶりに変わったからだ。耳障りな雨音が聞こえはじめた。
 惣ちゃんのお母さんは声にならない声でうめいた。私は状況がわからないまま、ノートを拾い上げた。
「あの……このノートは、ただ、惣次君の足が治るまで暇つぶしにと思って──」
 パンッ、と、雨にも負けない音が鳴った。一瞬、目の前がぼやけた。
 やがて左の頬がぼうっと熱くなった。私はそこに手を添えてたしかめた。ひりひりする。頬を張られたことに気がついた。
 とうとつすぎて、怒りすら忘れてしまった。どんな感情もわき起こらない。
 惣ちゃんのお母さんは大粒の涙をこぼしていた。眉毛は垂れ下がって、口はゆがみ、全身をふるわせていた。
「惣次はねぇ、歩けないのよ」
 ――え?




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