FC2ブログ

記事一覧

松尾真由美さん詩集『雫たちのパヴァーヌ』(アジア文化社刊/二〇一八年十一月十五日)を読む

松尾真由美さん詩集『雫たちのパヴァーヌ』(アジア文化社刊/二〇一八年十一月十五日)(1)



  一枚ずつ
  開いていく
  香りあるものの上空
  鮮やかなみどりをたもち
  こんなにも自由である
  とても静かに晴れやかに
  なまなましい皮膜をあわせて
  あなたと私は水でつながり
  午後の体温が極まるとき
  柵がくずれて
  息が始まる(「あざやかで自由な翼を」全文)

   *

 息は、はじまったかとおもえばすぐにおわる。浅く深く、遠く近く、やや湿り気を帯びたまま、たえず「そこ」を夢見たまま。意識よりも記憶よりも心象よりもはかないそことは、いったいどこだろう。まぶたを閉じ、くちびるを引き結んで、底へ底へとしずんでいけば、そこにたどりつけるのだろうか。そもそもそことは夢かうつつか。もしかしたら、そういった「もの」や「こと」ではなく、ただたんに〝存在のあかるみ〟のような謂いかもしれない。
 だから、あなたはこの詩集を片手に願わずにはいられない。いつでもそこにいけたらいいのに、どこからでもそこにふれることができたら、と――。

   *

  叫びのよう
  まばたきのよう
  ほのかな異語が隣接し
  小窓から光がさす
  だから春の
  気息をもとめて
  ささやかに吹かれゆく花びらの重なりに
  くろい闇を隠蔽し
  頭上の雲を仰いでみる
  つねにうごく
  風の日々
  蕾がはじける
  香っている(「やわらかな色の襞から」全文)

   *

 息は、はじまったかとおもえばすぐにおわる。さけびのように、まばたきのように。四十五秒ほどの小曲。舞踏。つぎからつぎへと――あられもなく――ページはめくられる(あなたがめくるのではない、あなたのゆびさきのせいでもない。また、あなたのとなりに譜めくりがいるわけでもない)。読まずにはいられないのだ、あなたのまなざしやあなたの聴覚、あなたのくちびるが。おわってしまった息をもういちど、そこで奏でるためにも。

 そう、おわってしまった息をもういちど、そこで奏でるためにも。あなたは一枚いちまい、うつくしい木の葉や貝殻を拾うように、なんどもなんども、くりかえしくりかえし、行と行、ページとページのあいだをさまよう。たまに息がつまり、脈がみだれることもある。くるしい、のではない。まばゆいのだ。
 あなたもまた、奏でられるだろうか、このまばゆさを。

 あなたもまた、奏でられるだろうか、このまばゆさを。あなたはそこではっとする。呼吸の間合いや読む行為、ページをめくるしぐさはすべて、奏でることなのだと。
 ことばと花と写真と――手もとにはこんなにもうつくしい楽譜があるのだから、それだけで、奏でられる。息をしてゆける。
 しずかに、ゆっくりと、いつまでも、どこまでも。

   *

  しずかに滞っていく
  この広やかさの底にあるもの
  私の生体がうつしだすことの憂いから
  色づいた葉の群れが逃れ去るように思えてきて
  白昼夢のあざやかな無音のきわ
  弧を反復する所作におちいる
  変わっていく水面の前で
  変わらない喉があり
  散っても屹立する植物の美観へと
  息を殺して近づいて
  そのように不明なまま
  つめたく明るむ
  蒼の反映(「反照のあてない身の内」全文)

   *

 なんどもなんども、くりかえしくりかえし、息をはじめ、息をおえる。この息がだれのものなのかはわからない。だけど、つながっている。重なっている。ゆきすぎることもなく、かといってもどりすぎることもない、ときには詩行のまなざしのまばゆさにつまずきながらも、それでもあなたはじぶんがなにかはかりしれないものといっしょに奏でていられるよろこびを知っている。あなたはもうすでに「そこ」にふれているのだということにもちゃんと気づいている。
 そこにふれる。そこと目があう。あたかもいちどきりの演奏のように。あるいは、妄りにステップを踏みあう精霊たちのように。まなざしで、くちびるで、みずからの存在のあかるみを披瀝しながらも、かなしいまでに晴れやかに反復し反芻しつづける、あるかなきかの、そこ。散逸するひかりの粒や、ありもしない日付……でも奇蹟、奇蹟だ。

   *

  出口と入口
  区切られない経路があって
  絡まりあう脈と実の部位
  どちらともなく未完のまま覆われる密度により
  曲線を抱えきれない両腕は誘いの原因でもあるのだから
  したたかな煩悶のごとく砦は作り直される
  きつく結べない朝と夜と昼
  ころがり落ちるかもしれない
  変奏から変奏への楽曲の不均衡を
  親しい石の瓦解とみて
  尖ったものと円いもの
  一瞬だけ
  風を感じる(「やわらかな線として」全文)

   *

 前詩集(『花章―ディヴェルティメント』)同様に、今回も森美千代さんの花の写真がよりそっている。いや、よりそっているのではなく、〝まなざされてある〟。詩が写真をまなざす瞬間もあれば、写真が詩をまなざす一瞬もある。道標、といってもいい。からまり、もつれあうことばと像。純度の高さはかなさゆえに、零度の地点で制御された音域。

「詩は語る沈黙」といったのはフランスの思想家ロラン・バルトだったか。詩人の詩は、まるでことばになる以前のひかりやにおいや音そのものの〝ふるえ〟だ、あなたがあなたであることの、わたしがわたしであることへの、そのおそれやいたみやきしみをかかえたまま、つねに文脈を造形し形成する予感をはらんでいる。なつかしいひとに出会うように、意味が疼くのはそのあとだ。

 花が咲くというのは、そもそもそれがそこにあるというのは、偶然的であり個別的であり、置き換え不可能であること以上に、奇蹟的なのだとおもう(だからこそ、この詩集では「あなた」や「わたし」といった存在をも、「そこ」にひそんだ〝咲く〟といった動詞が担っているかのようだ)。
 とりあえずそれを、まばゆさ、とでも呼んでみたい。

   *

  詩篇を重ねてみたとして
  厚みやひろがり
  夢になる
  おなじ窓と根の往還
  ずれることでふさわしい行き場をつくり
  触れてしまえば崩れていって
  抗っても抗わなくても
  枠は枠
  生身の形で
  貝を見て海を想い
  向こう岸には球根のまなざし
  読まれている
  とてもきびしく(「枠の奥とその照射」全文)

   *

 あなたは日々、「そこ」を夢見る。ありふれた失語のほとりを迂回するために、そしてもういちど、ことばや色彩、音楽をおもいだすためにも。
 なんどもなんども、くりかえしくりかえし、あなたはあなたと――あるいはそこと――出会いなおさなければならない。

 調和のとれたことばの粒だち、ことばの運びを堪能しながら、あるいはほどけそうでほどけないほころびをぬいながら、こぼれそうでこぼれない雫をそこにとどめたまま、〈流されないことの神々しさと恐ろしさと/つめたい氷の艶やかな雫のような/そんな言葉の欠けらを追って〉(「激しい起伏の水の果て」部分)でも読んでいくしかないあなたのまなざしやくちびるこそ、一篇の詩であり演奏であり舞踏であると、詩人はそういっているのかもしれない。

 あなたもまた、奏でられるだろうか。そのまなざしとくちびるで、そこにあるうつくしさを――。



松尾真由美さん詩集『雫たちのパヴァーヌ』(アジア文化社刊/二〇一八年十一月十五日)(2)



 前回同様に、この世のものとはおもえないまでに洗練された詩集を、ありがとうございました。


◇「松尾真由美さん詩集『花章―ディヴェルティメント』(思潮社刊/二〇一七年二月二十日)を読む」(2017/03/27)
http://torinoienohibi.blog.fc2.com/blog-entry-287.html




スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント