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タイムマインド(惣一編)(9)

 家に一人取り残された僕は部屋の中でさえ居心地が悪く、やるせなかった。
 そのとき、ふと目についたのが机の上に置かれた帳面だった。僕を支えている根元的な部分がぼろぼろと崩れ落ちている今、どこかにこの愛子さんへの切実な思いを放出しなければ自分が自分ではなくなるかのように感じていた。だから僕は書くことで放出しようと思い至り、さっそく帳面を開いて書きはじめた。書きつづることで、愛子さんの存在を文字の中に押し込んでしまえればいい。
 裏山の檜林に沈んでいく西日を浴びながら、黙々と筆を動かした。
 頭の隅々に散らばったかけらを拾い集めて再構築する作業は、感傷をともなう。僕はページを埋めながら――ときには涙を流し、ときには恥ずかしくなりながらも――ふつふつとわき起こってくる感情をすべて文章に直した。愛子さんに会いたくなる、その、積もりに積もっていく雪のような気持ちを、時間が経って溶けるまで必死にこらえた。
 晩飯を少しだけ胃に流し込むと、すぐに自分の部屋に戻った。そんな僕を、父と母は訝しげに見ているだけだった。静子とは顔すら合わさなかった。
 こんばんは。
 来客の声が聞こえ、帳面に向かっていた意識がぷつりと途切れた。
 母が玄関に行く足音が聞こえた。
「ああ、おばさん。こんばんは。惣一のやつはおりますか?」
「あら、勝彦君じゃないの? どうしただぁ、こんな時間に」
「いやぁ、ちょっとあいつに用があって」
「まあまあ──じゃあ、上がってくださいな。惣一は部屋におるけぇ」
 お邪魔しますと言って、友人はドタドタせわしなく歩いてくる。僕は帳面を座卓の下に隠した。
「開けていいか? 勝手に開けるぞ」
 襖が開き、日に焼けて浅黒くなった顔が見えた。開けていいかと聞いておいて返事を待たないとは失礼なやつだが、いつものことなので僕はなにも言わなかった。
「ほれ、酒を持ってきてやったぞ」
 勝ちゃんこと大竹勝彦は笑って一升瓶と風呂敷を持ち上げた。
「よもぎ餅もある。うまいぞ」
「それより、どうしただいや? 急に」
「まあ、話はあとじゃ。一杯やろうや」
 勝ちゃんはどかっと座って、風呂敷をほどき重箱を開けると、さっそくよもぎ餅をぺろりと食べた。
 しかたなくぐい飲みを用意して、僕たちは酒を交わした。勝ちゃんは開けっぴろげな性格で、長男の嫁と祖母とのそりが合わないことや、それが原因で祖母が倒れてしまったことをおもしろおかしくしゃべった。調子が出てきたところで、勝ちゃんは戦陣訓の書かれた扇子を法被の懐から取り出した。
 僕は日本酒を飲みながら勝ちゃんの軽口に相槌を打っていた。頭の隅では帳面のことが気になっていた。
「おい、俺ばっかり話しとるがな。おまえの話も聞かせぇや」
 勝ちゃんは扇子で、僕の肩を痛いほどたたいた。焼けた肌では酔いのまわり具合がわからないし、切れ長の目では据わっているかどうかも判断がつかない。勝ちゃんは、気づけば立っていられないほど酔っぱらっていることがあるので、注意しておかなければならない。酒にのまれた彼は凶暴だからだ。
「来たときから思っとったけどな、おまえ、元気ないでな。なんか、あったんか?」
「いや、なんも……」
 楽天的な彼だが、ときどき鋭い洞察力を発揮する。それは三月に雪が降るぐらいの確率だが、今言われるとは思いも寄らなかった僕は、反射的に顔に出てしまった。
「やっぱり、なんかあったんだな。言ってみぃや。俺らは旧知の間柄、すなわち親友っちゅうもんだろがい。互いに隠し事はなしだわ。現に、俺はおまえになんでも言っとる。だから、ほれ、おまえも吐け」
 勝ちゃんが勝手に言っとるだけだろ、と反撃したかったが、とうてい弁達者な友人にはかなうはずもなかったので、生唾をのんで押し黙った。
 僕が言い渋っていると、勝ちゃんはしきりに「親友だろ」と口にして詰め寄ってきた。
 思い返してみれば、愛子さんと交際できるきっかけをくれたのは勝ちゃんだ。農業試験場の帰りに彼に催促されていなければ、僕は思いの丈を愛子さんに言えなかっただろう。だから、彼にはちゃんと話しておくべきだし、それに、どっちみち知られる羽目になるだろう。結局、僕は愛子さんの縁談を聞いたところから、昨日呉服屋のせがれと会ったところまでをかいつまんで説明した。その間、勝ちゃんは神妙な様子で酒をあおっていた。
「もちろん、このまま引き下がるつもりはねぇだろ?」
 と、勝ちゃんは扇子をあおぎながら言った。障子の破れた個所から肌寒い風が入り込むのだが、彼は暑そうにしている。
「引き下がるもなにも、僕はもう愛子さんと会わん方がいい。事を大きくしてしまうだけだけぇ」
「ばか! 一丁前に澄ました顔をするな! 奥田愛子に会いとうて会いとうて、かなわんくせに!」
 核心をつかれ、胸をえぐられた。自分の気持ちをごまかすために手酌で酒をそそぎたす。手が小刻みにふるえていた。
「酒ばかり飲んどらんと、餅も食え。まだいっぱい残っとるぞ」
 勧められてよもぎ餅をほおばると、青臭さが鼻の奥をついた。
「よし、決めた! 俺は決めたけぇな!」
 勝ちゃんは自分の膝を、噺家のように扇子でぺしぺしとたたいた。彼は泥酔するとさらにしゃべり上戸になりお節介になる。彼に捕まってしまったな、と、苦く思った。
「明日おまえらを引き合わしたる。しょうがないけぇ、俺が一役買って出たる」
「いいっちゃあ、ややこしいことになるけぇ」
「いいや、おまえは愛子さんと会わないけん。うやむやの別離ほど、二人にとってつらいもんはないけぇな」
 僕は観念して、わかったよ、とつぶやく。この饒舌な親友には百年経っても太刀打ちできそうにないし、酔っぱらっているせいかすべてがどうでもよかった。
 勝ちゃんは横になり両手を枕にして、「別離~の、涙は~」と歌い出した。調子はずれのへんてこな歌だけど、気づけば僕は笑いながら音頭を取っていた。勝ちゃんには人を楽しませる性質があるらしい。静子と似ている。
 僕も顔がほてってきた。障子を開けると、風が頬を冷ましてくれた。夜空には星くずが散りばめられていてきれいだった。
「ん? なんだいや、これは」
 視線を戻すと、勝ちゃんは胡座を組んで机の下にあった帳面をめくっていた。
「なになに……『ああ、もうじきあの人は手の届かないところへ行ってしまう……恋のわずらいは深まるばかり……』──なんじゃこりゃ。おんなじようなことがずうっと書かれとる。気持ち悪いやっちゃなあ」
 僕は慌てて帳面を引ったくった。
「やめぇや! 人のもんを見んないや!」
 勝ちゃんは顎をなでながら、
「ははぁ、未練がましいことをやっとりますなぁ」
「とやかく言われる筋合いはないっちゃ!」
「まあまあ、そう興奮しなさんなって。初瀬惣一の、奥田愛子に対する思いは、十二分にわかった」
 耳たぶが熱かった。丸裸にされた気分だった。僕がむっつりしていると、勝ちゃんは愉快そうに酒をあおった。僕も酒を一口ふくむ。冷たい液体が喉を通り、かっと胸を焼く。
 勝ちゃんは心得顔になって、
「この帳面を愛子さんに渡せ」
 と言った。僕は、すぐには勝ちゃんの言葉が理解できなかった。目をしばたたかせて、どうにか意識を保とうとすることで精一杯だった。
「いけんっちゃ! こんな恥ずかしいもんを見せられるかいな!」
 と言ったつもりだが、ちゃんとろれつがまわっているかどうか怪しい。
「いいや、この文章は見せるべきだ。おまえが渡さんのだったら、俺が渡したる」
 勝ちゃんは帳面に手を伸ばしてきた。僕は体をひねって奪われまいとする。
「明日はおまえたちをすっきりと別れさせてやるつもりだったがな、この帳面に書かれとることを読んで、おまえが彼女に抱いとる気持ちがよーくわかったわ。文章はあんまりうまくないけどな。まあ、そういうことなら俺の考えも変わるっちゅうもんじゃ。俺の考えとしては、おまえはその恋心を愛子さんにぶつけないけん。この帳面は、愛子さんの目に触れてこそ、はじめて意味あるもんになるけぇな、絶対に見せないけん。臆病者のおまえはどうせうじうじして渡せんだろうけぇ、俺がなんとかしたるわい」
「いいけ、いいけぇ。よけいなことはせんでくれぇや」
 僕はよろけて、勝ちゃんを道連れに畳に倒れた。
「なにがいいだいや。愛子さんをごっつう好いとるくせに。そんなに好いとるんなら、とことん尾を引きずって別れろ。それしかないで。いくらきれいごと並べてもな、後悔先に立たずじゃ。アホなおまえはあがいてあがいて、いっぺん潮騒にもまれないけん。潮騒に……」
 頭が眠りを欲求している。勝ちゃんの言葉が遠のいていく。ひどく胸焼けがする。天井からつり下がった電球に蛾がぶつかっている。ぼんやりした意識の中で、ただ一つわかっていることがあった。
 それは、勝ちゃんのこの大声は家中に響き渡っているだろう、ということだ。




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