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タイムマインド(惣一編)(8)

 一晩経っても、僕は抜け殻のようにやる気をなくしたままだった。今朝果樹園に行って仕事をしていると、──さいわい傷口は浅かったものの──うっかりノコギリで指を切ってしまった。父には怒鳴られ、母と妹には心配された。昼食を摂って出かけるために支度をしていると、父に「おまえは来んな。邪魔になるだけだけぇ、今日は休め」と、母には「病院に行きんさい。朝ご飯も昼ご飯もろくに食べんと、どこか悪いところでもあるんじゃない? 生気のない顔をしとるで。目も落ちくぼんどるし」と言われてしまった。
 僕は畳の上に横になったまま、柱にかけられた暦を見やった。今日は仏滅だった。外から子どもたちのにぎやかな声が聞こえてくる。鬼ごっこでもしているのだろうか。僕は深いため息をついた。このもやもやした気持ちをどこにぶつければいいのかわからなかった。愛子さんに会えない、あのやわらかな手に触れることはできない、声も聞こえない──。
「お兄ちゃん、聞いてぇな」
 静子が部屋に入ってきた。
「うち、今度の学芸会でクラスの代表として歌わな、いけんことになっただがぁ。それでいまいちコツがつかめんところがあるけぇ、ちゃんと歌えとるか、聴いといてぇな」
 僕はごろんと後ろを向いて無視した。とてもじゃないが、相手をしてやれるほどの気分ではない。
「ちょっと、お兄ちゃん!」
 静子は僕をゆさぶる。
「なあ、うちが学芸会で恥をかいてもいいんか?」
「知らんっちゃあ。河原でも野原でもいいけぇ、どっかに行って勝手に練習せぇや」
「一人じゃあ、どこが悪いかわからんもん。お母ちゃんもどこぞに出かけとるけぇ、お兄ちゃんしかおらんだが」
「今は静子につき合うほどの元気がないだっちゃ」
 僕が邪険に体をひねると、静子は押し黙った。しばらくして、
「そんなに愛子さんのことで悩まんと、きっぱり諦めたらええが」
 簡単に言うなよ、と胸のうちでつぶやく。
「だいたい愛子さんは、お兄ちゃんのような平凡でぱっとしない人の、どこが気に入ったんかなぁ。うちにはわからんわ」
 うるさい、ほっとけ。
「そう考えると、もともとお兄ちゃんと愛子さんは縁がなかったってことよ。相手は高嶺の花。ひとときのいい夢だったって、割り切ったらええが」
「それができりゃ苦労せんわ!」
 沈黙が降りた。そろそろ立ち去ってほしいのだが、妹がここを動く気配はない。なにをしているのかと振り向くと、静子は顎に人差し指を添えて天井を見つめていた。そしてパンと両手をたたいた。
「なら、うちを愛子さんだと思えばいいが」
「はあ?」
「うちの髪型は愛子さんの物真似だし、ちょうどええで。実はな、ひそかに愛子さんを見習っとるけぇ」
 そういえば今どきは大半の子が三つ編みにしているが、妹はおかっぱ頭を変えようとしないし、自分のことを「うち」と言うところも──子どものころは「私」だったのに──愛子さんそっくりだ。
 僕は顔をしかめて、
「静子が愛子さんのようになれた日にゃ、お月様がひっくり返ってしまうわ。それに愛子さんは、方言をあんまり使わん」
「別に方言ぐらいいつでも直せるけぇ、いいもん」
 静子はふくれっ面をした。生意気さを感じさせるその顔つきは、愛子さんとかけ離れている。
 妹の相手をしているうちにどっと疲労を感じて、僕は頼み込むように言った。
「お願いだけぇお兄ちゃんを一人にしといてくれぇや。静子とおると疲れるだっちゃ」
「なんでそんなにうちを邪魔者扱いするだあ?」
「今はここにいてほしくないだが。それぐらいわかるだろ? 静子は、僕と愛子さんとの関係を知っとるだけぇな。それとも、僕がこんなに弱っとる姿が、おもしろいんか?」
 静子は頬をふくらましていたが、次第に目に涙が浮かんできた。勝ち気な顔がゆがんでいく。しまった、と思ったときには、もう遅かった。
「うち、知らんわ!」
 と言い残し、静子は敷居を飛び越えて去っていった。
 僕は額を打ち、妹を傷つけてしまったことを悔やんだ。妹は妹なりに落ち込んだ僕を励まそうとしてくれていたのに──なんてことを言ってしまったのだろう。




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