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タイムマインド(惣一編)(7)

 果樹園に行くと、僕は無心に仕事をした。心を空っぽにして、単調な作業を繰り返した。僕は努めて平静を装っていたつもりだったが、父に「なに、かりかりしとるだいや」と見抜かれてしまった。奥田のバカタレのことを思い出すまいと心がけていたが、体は正直で、怒りをあらわにしているようだ。
 晴れ晴れとした空が恨めしい。
 すぐ近くに、父の大型のラジオが置かれている。徳川要請問題に関し国会で証言した菅季治が吉祥寺駅の周辺で線路に飛び込んで自殺したというニュースが流れていた。僕は気持ちを落ち着かせるためにそれを聞きながら花芽を取った。
 昼になった。父に「先に帰っといて」と言って、もう少し果樹園にいることにした。
 作業に集中しているときだった。掘っ建て小屋のあたりに人影があった。
 となりの果樹園に向かう奥田のバカタレかと思ってとっさに身構えたが、僕と背格好が変わらない青年だったので、すぐに違うと思い直した。さっきからじっとこっちを見ているようなので、僕は気になって、その青年のところに行った。
「なにか用ですかな」
 僕が訊ねると、青年は目を細めた。頭にポマードをなでつけて、顔は女みたいに白く平べったい。農業をやっている者ではないとわかった。それに、上等なウールの着物を着ている。
「初瀬惣一さんですか」
「ああ、はい」
 青年は、たちまち眉間に険しい縦じわを刻んだ。
「愛子さんのお父さんから聞きました。朝、家に来られたそうですね」
 体が硬くなった。こいつが、愛子さんの婚約者だとわかった瞬間、僕は激しい怒りを覚えた。腹の底が煮えたぎる。両の拳を握りしめて、なんとか抑えようと努力した。そうしないと、今にでも相手を殴ってしまいそうだった。
「あの、状況がよくわからないと思いますので、簡単に説明しますと──」
「あなたが、愛子さんの婚約者、というわけですか?」
 言下に、僕は聞いた。
 呉服屋は軽く首を傾け、うっすらと笑った。見れば見るほど腹が立つやつだ。
「なんだ、もう勘づいていらっしゃるみたいですね。ならば話は早い。私がここへ来た理由も、ご理解いただけますね」
「金輪際、愛子さんとは会うな、というわけですか」
「まあ、手っとり早い話、そういうことです」
 呉服屋は両腕を袖に入れて、空を仰いだ。ポマードがてかてか光る。
「しかし、島根から来てみて、よかったですよ。いやね、結婚日時を決めるのが目的だったんです。こんなややこしいことになっているとは思ってもいませんでした。でも、やはりここは婚約者である私が、じかにあなたと会って話をするのが道理ってものですから、いやぁ来てよかったです」
 真摯な態度をとろうとする青年だが、裏には蔑みが巣をつくっているようで、僕は、どうも好きになれそうにない。しかし、愛子さんの夫になる人なのだ、悪く言うもんじゃない。
 僕は頭を下げ、
「愛子さんには二度と近づきません。どうか、おしあわせに」
 と苦々しく言った。早く去(い)ぬれ、と内心では毒づきながら。
 呉服屋は満足げに大きくうなずいてから踵を返した。愛子さんのうちからはずいぶんと距離があるっていうのに、歩いてここまで来るとは、ご苦労なことだ。呉服屋といっても暇を持てあましているに違いない。呉服屋の姿が見えなくなるまで、僕はずっとにらみつけていた。
 拳の力を弱めて手のひらを見ると、爪のかたちをした血がにじんでいた。




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