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タイムマインド(惣一編)(6)


       三

 あくる朝、僕は果樹園の仕事を中断して、愛子さんの家に行った。昨夜の失望を引きずっているわけではなく、別れるなら別れるで、直接言ってほしかったからだ。目の前で言われれば僕だって決心がつくかもしれない。
 玄関の引き戸のガラスを透かしてそっと中をのぞき込むと、愛子さんが割烹着姿で棚を拭いていた。しばらく見ていたが奥田のバカタレが出てくる様子もない。もしかしたら出かけているのだろうか。僕は迷ったが、しかしためらっていても埒が明かないので、思い切って引き戸を開けた。
 いらっしゃい、と振り向いた愛子さんだったが、僕を見るなり表情が沈んだ。昨日とは違って、明るい態度にはならなかった。
 彼女から視線をはずし、棚に並んだ下げびらやミルクキャラメルの箱を見つめた。
「呉服屋のもんと結婚するっちゅう話は、本当か?」
「昨日の晩……やっぱり、聞いていたんですね」
「ああ」
 愛子さんは下唇を噛み、持っていた雑巾を両手でぎゅっと握りしめた。
 僕は、責めているわけじゃない、と、なるべくおだやかに言った。責めてはいない。ただ、自分でもどうしていいのかわからないのだ。
 僕は息苦しくなり、思わず話をそらした。
「……ビスケット」
「え?」
「ビスケットを、もらおうかな」
 愛子さんはぼんやりとしていたが、気がついたのか少しうなずいて、ビスケットの箱を取った。
「ああ、それと、この際だから、乾物もな。ほら、そこのワカメをもらおうか。あと、ぎょうせんアメも、ひさしぶりに食いたいな」
 この際――その言葉を言った直後に、そのとおりだと思った。もう二度とこの店に来ることはないのだから、本当に、この際、だった。
 愛子さんは菓子を紙袋に入れながら、ごめんなさい、と言った。顔が悲しそうにゆがんでいる。
「いい」
 なかば自分に言い聞かせるように、
「いいだっちゃ。これはしかたないことだけぇ」
 僕はお金を皿に入れ、紙袋を受け取った。そのとき愛子さんの手に触れ、反射的にその手を握りしめた。愛子さんは目を濡らし唇をわななかせている。喉もとまで、それじゃあ元気で、という別れの言葉が出かかっていたが──なかなか言い出せない。
「おーい、愛子や」
 廊下の暖簾をめくって、奥田のバカタレが顔を出した。僕はとっさに手を引っ込ませて紙袋を持った。が、雰囲気でわかったのか、奥田のバカタレは血相を変えて、裸足のまま土間に出てきた。
 奥田のバカタレは僕の胸ぐらをつかんで、
「うちの愛子になにするだいや。早う出ていってくれんかのお。なにせ嫁入り前だけぇな、変なうわさを立てられとうないんだわ。おまえのせいでこの話が水に流れてみい。わし、一生恨んだるで」
「お父さん!」
 愛子さんが大慌てで止めに入ったが、奥田のバカタレは依然として威嚇する野良犬のような目でにらみつけてくる。僕はこれ以上愛子さんを困らせてはだめだと思い、入り口に向かった。
 しかし、このまますんなりと帰ってしまうのも、癪だった。僕は引き戸を開けると振り返り、
「愛子さんを困らせとるのは──あんたもだで」
 と言い捨てた。




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