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大家正志さんの詩「生きているのに」(『詩素』5号)を読む

『詩素』5号(1)





       世界はエントロピー増大の法則に支配され、時間が経つとどんどん無秩序になっていき、
       新たな秩序はうまれないのだが、ときたま局所的に小さな秩序をつくることがある。その
       秩序は小さなものだが、それに影響されたまわりの粒子たちが徐々に強い秩序をつくって
       いき、とてつもなく大きい秩序をうみだすことがある。



  自分が生きているということを
  きみは知らないのだが
  いくつになったら
  それを知ることになるだろう

  じつのところをいうと
  ぼくはこんなに長く生きてきたから
  生きているということは知っているが
  生きているということを知らない
  おまけに日々
  うすまりつづけるなにかのなかで生きていると
  生きているということがあいまいになってくる
  (あいまいになるとおもえばおもうほどあいまいさがあいまいになる

  きみは
  自分がなにものであるかを知らない悦びを顔中にまくしたて
  つぎからつぎへとぼくの知らないきみ自身をくりだして
  くるくるくるくるまわりながら中心を形づくりはじめる
  それを自我とよぶのだろうが
  そんな名付けなどきみには関係なくて
  得意げに腰をふりふり
  即物的 即時的な言葉に身をゆだねては
  甘い吐息を吐きだして恍惚としている
  そのさまは
  ぼくの
  うすまりつづける困惑さなどはどこかそこらへんへ投げ捨てて
  こっちの世界へ来て踊ってみればいいさなどといっているようだが
  ぼくの顔は自我のつきはてたおとな顔を拭いきれないでいる
  きみもいつかはそんな顔をするときがくるだろうが
  そのきみを見ることができないのは幸運だ(「生きているのに」全文)

   *

 作品冒頭に付けられた註に「エントロピー増大の法則」が述べられているが、それ以上に注目すべきはタイトルである。タイトルは通常、詩全体をほのめかすものであるが、ときどき、一行目にかかってくることがある。

  生きているのに
  自分が生きているということを
  きみは知らないのだが
  いくつになったら
  それを知ることになるだろう

 というように。そしてその「生きているのに」ということばは、読みすすむにつれ――まるで、そう、エントロピー増大の法則のように――なんどもなんども、くりかえしくりかえし詩のそこここにもぐりこんでは浮きあがってくるのだが、ちっとも重くない、重くならない。つねに一定の速度で、吐息のように、ささやきのように語りかけてくるだけ。なんていうか、ただたんに〝たれながし〟の状態なのだ。
 たれながしといえば二連目の最後、

  (あいまいになるとおもえばおもうほどあいまいさがあいまいになる

 とあるが、お気づきだろうか、丸括弧は閉じられていない。たぶんきっと、ここでも「ぼく」のなかであいまいさがあいまいになればなるほどあいまいさがあいまいになっていくエントロピー増大の法則がかかわってくるのだろう。
 「ぼく」は、生きているということ〝は〟知っているが、生きているということ〝を〟知らない。助詞のちがいは、理解や認識のちがいでもある。頭で考えることと、ほんとうに知ることはちがう。いや、もはやちがうとかちがわないといったレベルのはなしではない、べつものなのだ。

 ……生きている、ということを知ってしまったのはいつだったろう。ものごころのつくころには知っていただろうか。はじめてひとを好きになったときだったかもしれないし、親友に裏切られたときだったかもしれない。
 ひとは「生きている」から生きているのではなく、すでに〝生きている〟。しかし、すでに〝生きている〟ときには「生きている」なんてぜんぜん、これっぽっちもおもっちゃいない。じぶんは「生きている」のだと自覚し、考えるようになると、もうおしまいだ。
 生きている、ということを考えれば考えるほど、生きていること〝が〟あいまいになっていく。ほんとうは、生きていること〝は〟あいまいでもなんでもなく、依然として知らないこと、なのだとおもう(このへんのニュアンス、うまくつたわればいいのだけれど)。

 三連目に突入してからも、生きていること〝は〟知っているが、生きていること〝を〟知らない「ぼく」は、自分がなにものであるかを知らない「きみ」にやさしく、ほほえましく――ある意味、残酷に――語りかけるが、もしかしたら生きているかどうかなんて、どうでもいいこと、なのかもしれない。
 「ぼく」はただたんに、生きているかどうか、ということをはなしの接ぎ穂にしているだけかもしれない。見つめあっているのが照れくさいから、なにかいわなければならない、などとおもっているだけかもしれない。
 とにもかくにも、ひとは手探りで「解けない問い」を生きなければならない。ぬぐい去ることのできない違和をかかえながらも、まっすぐに、ときにはジグザグに走りつづけねばならない。
 走りつづけているうちに、なにかが変わってくる。たとえそれが〈うすまりつづける困惑さ〉だとしても、それを投げ捨ててみたところで、〈自我のつきはてたおとな顔を拭いき〉ることはできない。
 人生は空(から)の映写機をまわすようにむなしいものかもしれないし、ふとスクリーンになにかが映しだされたとしても孤独が解消されることはない。時間がたてばたつほど「ぼく」や「わたし」の存在は中心をなくし、空間に溶けこんでいく。〈うすまりつづける困惑さ〉というのは、つまりそういうことだろうとおもった(……もしかしたら的外れなことをいっているのかもしれないけれど)。
 ただひとつだけはっきりしているのは、「ぼく」は他者にふれている、ということだ。
 対人関係にはいっていくこと、それはすなわち自己中心性からの脱却である。ひとはひとりで生きているのではなく、ほかのひとたちのあいだで生き生かされている。これまでになんどもなんども、くりかえしくりかえし他者とつくってきた秩序がある。
 だからこそいま、こんなふうに「きみ」と出会うことも実現したのだ、そのことをふまえたうえで「ぼく」は「きみ」に語りかけているのだ。
 はたしてこれ以上の奇蹟はあるだろうか。



『詩素』5号(2)


『詩素』5号(3)




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