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群衆(13)(絵・ひがしもとしろう)

群衆(13)(絵・ひがしもとしろう)



 そのとき、私の中で固く守られていた何かが一気に決壊した。私は叫んだ。しかし私の叫びはサイレント映画のように無音で無害だった。私はよだれを垂らし頭をかきむしり身をのけぞらせた。背広の胸ポケットから携帯電話を取り出し、思いきり遠くへ放る。ティッシュも。ハンカチも。家の鍵も。ネクタイも放る。ベルトも放る。そして、上着も放る。私と同じことをしている者もいれば、目をつむり、肩を落としたまま、ただただ途方に暮れている者もいる。亀を探したが、いない。女子高生もいない。ピエロもいない。ロータリーを突っ切って駅の構内に入ると、きっと先ほどまで群衆の一部だったのだろう、顔に怒りや憎しみ、恨みのような醜い感情を宿らせた人たちが売店や土産物屋を襲撃している。誰もが言葉をすっかり忘れてしまって、吠えたり、うなったりすることしかできない。立ち入り禁止の柵などおかまいなく店内に侵入し、荒らす。次々と商品が壊され、包装紙が破られ、棚が倒れる。私も、仲間に加わった。私はふたたび叫びともつかない叫びを発しながら目についたものを片っ端から放り投げていった。平台の上に山と積み上げられた、ご当地キャラクターがプリントされている饅頭だかカステラだかよくわからない菓子箱をできるだけたくさん抱え込んで放る。いくつものコードが絡み合ったレジスターを放る。誰かが落としていった携帯電話や帽子や眼鏡や靴や腕時計を放る、放る、放る。満たすことと損なうことの軋轢のかたわらで私の行為を見守っている子どもがいる。その子どもの微笑みと、私の微笑み――決して交わらない二つの記憶が弓なりにあえぐのがわかった。星の誕生の瞬間だった。様々なものの意味が闇の中で衝突し、破裂し、溶解し、また別の意味を生んだ。月の魚は懸命に月へ帰ろうとするが、なかなか前進しない。あるいはわざと誰かに捕まるのを待っているのかもしれない。よし、私が捕まえてあげよう。私は平台の上に上がり、爪先立ちになって、腕を伸ばした。月の魚はすぐ目の前を泳いでいる。時計の秒針よりも遅い。少しでも息を吐くとその息で吹き飛んでいくかもしれないと危惧した私は息を止めて、月の魚の尾びれをつまんだ。その瞬間、私の脳内に青白い閃光がほとばしり、一気に過去の記憶がよみがえってきた。ぶるぶると震えながら学校の倉庫の前に横たわっている、雨に漂白された一匹の子犬。電線に止まって競うように鳴き続ける数羽のカラス。幼かった日のように……。工場跡地の鉄錆の匂い。冷たい水道の水。瞼の裏側の地下室。幼かった日のように……。毎晩、冥府の底で酒を飲んで帰宅する父親。父親の、ジッポーの蓋を開け閉めする奇妙な癖。幼かった日のように……。暴風雨に荒れ狂う海のたてがみ。雲に遮られて姿の見えない月。きらりと光る秋の日差し。幼かった日のように……幼かった日のように、すべては遠く、美しい。後ろを振り向かないで。まっすぐ、まっすぐ、そう、そのまま……




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