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群衆(2)(絵・ひがしもとしろう)

群衆(2)(絵・ひがしもとしろう)


 一時間前――。「間もなく電車が到着します」という、プラットホームに流れるアナウンスを聞くともなく聞きながら電車待ちの列に並んでいた私は、一瞬、激しい頭痛に襲われた。その痛みは、人々が電車の内部に吸い込まれていくのを見ているうちに危険信号に変わり、乗車の一歩手前で私の足を躊躇させた。後ろの若者に何か文句を言われたが、それどころではなかった。ふたたび頭の中心がずきっと痛み、耳鳴りや眩暈、吐き気に襲われ、意識が遠のきかけた。気がつけば、私はのろのろと階段を上がっていた。駅員に定期券を提示し改札を抜けると、いくぶんか気持ちは和らいだが、券売機のスリットに硬貨をすべり込ませている女子高生がいかにも不審者を見るような目つきで私を見ているのがわかり、大して意味もなく背広の襟を正したりして平静を装ってみた。しかし、その女子高生はなおも執拗に、正確に、私の方に視線を送ってくるので、たまりかねて体の向きを変えたとき、いきなり何者かに腕をつかまれた。きみも仲間だ、来なさい、と、白髪の男は言った。私の父よりもずいぶんと上の世代だろうが、声に覇気がある。ちょっと、なんなんですか、あなたは? 私が身をくねらせて抗おうとすると、今度は白髪の男ではなく、まわりの、七、八人の男たちが一斉に同じ台詞を吐いた。とにかくここから離れるんだ!
 駅を出て、噴水広場を横切り、交差点を渡る。そしてそのまま商店街に突入する。居酒屋やラーメン屋、カレーライス専門店、鮨屋や蕎麦屋やうどん屋や中華料理屋などのネオンサインにことごとく腰をぶつけながら、もう十分駅から離れましたよ、放してください、という私の訴えを、白髪の男はなかなか聞き入れてくれなかったが、次第に人数が増えるにしたがって、むやみやたらに騒ぎ立てる者が現れ始めて、私一人にかまっていられなくなったのだろう、白髪の男は一言だけ、絶対に我々と一緒に歩き続けることだ、それしか方法はない、と言い残して、立ち去ってしまった。
 やや風が出てきたようだった。生温く、どこかカルキ臭い夏の夜の風だ。いつの間にか手の甲に引っかき傷がついていたので、舐めておいた。唇が少し腫れぼったい。自分が今、空腹なのかどうなのかよくわからない。不思議とビールを飲みたいとも思わない。


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