FC2ブログ

記事一覧

十月


水曜日のカンパネラ『マリー・アントワネット』



私の日々はどんな異教の神にも踏みつけられ、それに耐えているという一週間の日々でもなければ、またチック・タック鳴る時計の音で細かに刻まれていく日々でもなかった。というのは、私はプーリー・インディアンのように生活していたから。彼らには「昨日、今日、明日を表するのに一語しかなく、昨日を表すのに後方を指さし、明日は前方を、今日は頭上を指さして意味の違いを表わす」といわれている。(ヘンリー・D・ソロー「森の生活」)

   *

公園では子どもたちが歓声をあげながらこもれびのなかをいったりきたりしている。なんども見知らぬひとと目があう。さだまることのないまなざし。ぬくもりのないほほえみ。ふと、もうあのひとは生きてはいないのだとおもう。猫の背中のようにゆるやかに湾曲した縁石に腰をおろす。ゆびさきは、なぜか水気をふくんでいる。ひとさしゆびを目の高さまでかかげると、風のなかでx軸とy軸が交差するのがよくわかる。

こもれびのなかの
ひかりとかげ
あふれんばかりに葉がざわめくと
そこからいくわもの鳥が生まれては飛びたっていく
こどもでもおとなでも、おもいというのは
語りつくせるものではない

   *

のらいぬが、ぼくの影のにおいを嗅いでいる。そのうちぼくの影をくわえて地面からひきはがしてしまうかもしれない。
月明かりがやわらかくにじんでいて、あまりにもみだらに、あからさまにからまりあう地中の根まで透けて見えてきそうだった。あるいは、死者のたましいがそこで身動きがとれないようすさえも(……もしかしたら、木々や草花はそうやってぼくたちをこの世界につなぎとめてくれているのかもしれない)。
だれかに呼ばれても、きこえないふりをする。そもそも、だれかに呼ばれることはない。ふりかえると、犬と目があう。




スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント