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高橋裕子さんの詩「キッチン―七月」(『日本未来派』235号)を読む

日本未来派(235号)



  青々と稲穂がそよぐ北耕地
  畦道にとめてある白い自動車が
  朝日を受けてまぶしい

  去年と変わらない 窓の外
  けれども このキッチンの中は
  閉じてしまった山小屋のように
  静かだ(一、二連)

 読みはじめるよりもまえに――そのページをひらいた時点ですぐに――いいにおいがたちのぼってくることがある。こころなしか、余白がまぶしい。ことばが目に飛びこんでくる。ここにはぼくが願っていたものがあるという直観がうずく。読みたい、というよりも、〝読まなければならない〟。

  あの日 あなたは
  私の帽子に
  ひまわりの飾りをぬいつけてくれた
  採れたてのブルーベリーで
  冷たいジュースを作ってくれた

  道まで伸びたノウゼンカズラの蔓を切り
  小豆を炊いて 炭酸まんじゅうをつくった
  夏みかんのゼリーは絶品だったね(三、四連)

 去年もきっと、「私」はキッチンで小豆を炊いたり炭酸まんじゅうをつくったりしたのだろう。流しのまえで採れたてのブルーベリーのジュースを飲み、時折、窓の外に目をやる。視線のさきには白い自動車があり、青々とした稲穂が風にそよいでいる。しかし、もうどこにも「あなた」のすがたはない。「夏みかんのゼリーは絶品だったね」、このひとことが木の葉のようにぼくの胸に落ち、せつなさのさざなみをたてる。
 さざなみ。あるいは共振の波長とでもいえばいいだろうか。

  今年も 庭いっぱいに
  日々草が咲きそろった けれども
  あなたのいない
  このキッチンの中は
  どうしようもなく
  さみしい(五連)

 だれかが願っていることは書かれるべきだとおもう。詩は当然、詩人だけのものではない、こころの奥底でひそやかに「こんな詩を読みたい」「こんなことばにふれたい」と願っている読者のためのものだ。詩は読者の希望をかなえるためにあり、この世界に共感を生むための手段でもある。ぼくはずっとこの詩を――こういった詩と出合えるのを――願っていたし、だからこそ、ぼくのもとにこの詩は届けられたのだ(いささかじぶん勝手ないいかたになってしまうけれど)。
 元気のでる詩もあれば、なぐさめてくれる詩もある。いま、ぼくが欲していたのは、そう、後者だ。これからもふいにおもいだすようにこの詩のページをひらくことだろう。

  素足よ
  帰っておいで
  笑い声よ
  音を立てて 転がっておいで
  この 私の 窓辺に(終連)

 じぶんが願っていた〝おもいのことごと〟を、だれかが書いてくれているなんて、なんていうか、交差することのない位相が交差するほどの奇跡だろう。だれかがひとりでも願わなければ書かれることはないし、書かれたものはかならずだれかの願いをかなえることができるはずだ。




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