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九月


Purple Haze (Live at the Atlanta Pop Festival) (Digital Video)



アントン・チェーホフのことばに、劇の第一幕に登場した銃は第三幕でかならず発射されるというのがある。たんなる伏線の回収というよりは、人間の――書き手あるいは読み手の――願望や欲求のあらわれ、のようなものだろう。
とくにおもしろかったわけでもないが、ブラッド・ピットとジュリア・ロバーツが共演した映画『ザ・メキシカン』をおもいだす。世界一うつくしい伝説の拳銃「メキシカン」。その拳銃には呪いがかかっていて、引き金をひくと弾が逆むきに(つまりこちら側に)でて、みずからの頭を撃ちぬいてしまうはめになる。うまい設定だとおもった。
もし手もとに拳銃があればそれはいずれつかわれるだろう。しかし、それ以上に――つかわれるかどうかよりも――それがあることによって、すっかり状況がかわってしまうのも興味深いところだ。
ひとはつねにその誘惑に駆られながら、また、ときにはあらがいながらも、「チェーホフの法則」に忠実であろうとするが、ただひとつだけわかっているのは、たった一丁の拳銃であっても、発砲すればかならずおのれの眉間をも撃ちぬいてしまう、ということだ。

   *

どんなに時代がすすんでもかわらないのは人間のこころの構造だとおもう。だからこそ、いまでもぼくたちは古代ギリシアの哲学者や中国の思想家、イングランドの劇作家やロシアの文豪の「ことば」にゆさぶられるのではないか。いくら古典的名作といっても、ひとをゆさぶらないものがのこりつづけることはない。
お金とか国とか神さまとかがただの虚構だとしても、そういった「もの」や「こと」に共同主観的なレベルで意味や価値をあたえているのは、やはり、ことばだ。
そしてそのことばをつかって、なんどもなんども、くりかえしくりかえし、えんえんと、際限なく、くるおしいほどに読み手の眉間やらのどぼとけやら胸の奥底やらを撃ちぬきつづけている大著述家たちのすごさといったらない。

   *

ぼくにとって古典的名作は抗うつ薬というか希望の種のようなものだ。水のはいったガラスの容器のなかで――不愉快な実験の餌食となったラットのように――なんどもなんども、くりかえしくりかえし、おぼれそうになりながらも、どうにかこうにか今日まで生きのびてこられたのも、そのおかげだとおもう。
できれば、そう、じぶんじしんでこのこめかみを撃ちぬいてみたいのだけれど。


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