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九月(詩誌『リヴィエール』、福田操恵詩集『ひもシャツ』)


Bill Evans-My Foolish Heart



ぼくとタモリさんと女性アナウンサーの三人で回転寿司店へいく。仲良く寿司を食べながら今度の番組のタイトルを考えた。最終的に「わたしという爆弾がどうかおおくのひとにとって意味をなさないように」というタイトルに決まる。そこで目が覚めた。いったいどんな番組なのだろう?
寝ちがえてしまったのだろうか。それとも、あやまってくじらでものみこんでしまったのだろうか。首や背中がひどくこわばっている。顔を洗おうとすると、いまにもそいつが飛びだしてきそうなほど背中がきしみ、洗面台にはうっかり首をおとしそうになる。

   *

仕事がはかどらぬまま、遅めの昼食。トーストのうえで、詩のようなバターと、バターのような詩を、はかりにかける。まどべで溶けあうものはなんだろう。あるいはなにかの名残だろうか。

   *

ゆうがた。詩誌『リヴィエール』(一六〇号)が届く。表紙をめくってすぐのところに谷本州子さんの詩があった。

  帰ってこないものたちの
  消息を聞くために
  花は蝶を招き入れた

  蝶は花のほとばしる思いを受け取り
  今をそそぐ

  夏の残り香が
  時間をゆるめる

ひととであれモノとであれ、出会いというのは、じぶんのなかでどう位置づけ、意味づけをするかにかかっている。たったいちどきりの出会いであったとしても、ずっとこころのかたすみにのこりつづけるひとがいる。なんどもなんども、くりかえしくりかえし読みつづけることで、ようやく深い理解に達する本がある。たまたまタイミングがあわなかったり、おもいがからまわりしたりして、せっかくのチャンスを棒にふってしまうこともある。
蝶と花が出会うこと自体は必然であるが、「その蝶」と「この花」が出会うのは、いったいどういっためぐりあわせだろう?
もし人生をやりなおすことができれば、またべつの出会いがあり関係性が生じるにちがいない。なぜならその日そのときの天候や環境、状況が〝いまではない〟のだから。いいなおそう――ひととひとが出会うのは必然であるが、「このぼく」と「そのひと」とが出会うのは、いったいどういっためぐりあわせなのか?
いまの出会いや関係性が尊いのは、つまりそういうことだとおもう。


詩誌『リヴィエール』(160)


『リヴィエール』の「編集ノート」には石村勇二さんがこう書いている。

「武力に対抗できるのは武力ではない。それは日常における、生活だ。時には家族とともに、時にはみんなとともに、風や太陽までを味方にして、花や蝶までを味方にして、貧しくとも平安な生活を送ること。声高に反戦を叫ばなくとも、自分の生活ぶりや、信念を貫いた自分の生きざまが、平和を愛するこころとなって、戦争を二度と許さない世論につながっていく。詩もそのようでありたい。」

   *

いいことばとことばは、いい出会いのようにひびきあうものだ。ここでふと、地元の詩人の詩をおもいだした。

「前開きのひもで結ぶシャツなど/今の若い人は 知らないだろう/さっと ひもをほどいて/空腹の赤ん坊に/乳を与えるのだ/いまごろのシャツには/ひももボタンもない/乳房は半分くらい/はじめから露出していて/そこに 見えかくれしているのは/赤ん坊のものではないようだ」(福田操恵詩集『ひもシャツ』、「前開きのひもシャツ」一連)

福田操恵さんは、つねに詩の種をもった詩人だ。詩の種、あるいは「くらし」の種を。日々、日めくりカレンダーは破り捨てられるが、福田さんの「くらし」の種は原稿用紙のうえに蒔かれる。
詩のことばは、すぐには芽吹かない。三日……三週間……三カ月待っても芽がでないこともある。
しかし、詩人は毎日、水やりを欠かさない。病院の待合室でもバスのなかでも、どこでも詩人は詩人のまなざしで注意深く、しんぼうづよく「くらし」を見つめつづける。

「ひもの先を/指でもてあそびながら/乳を吸う赤ん坊の姿を/思い出し思い出し/ひものシャツを/着続けるのは/いつのまにか 何十年/シャツ一枚/買えなかったわけではない/何度か/捨てようと思わなかったわけではない」(同二連)

東日本大震災以降、「あたりまえ」であることがどんなに特別であるか、いかに奇跡の連続のうえになりたっているか、おおくのひとが実感しているとおもう。福田さんもまた、もっともあたりまえの「もの」や「こと」を詩に書く。風呂焚きやわら仕事、豆をむくことさえ尊いものなのだと教えてくれる。ひとりの生活者としての自覚をもった、こんなにも信頼に値する詩人がほかにいるだろうか。

「軽くて 暖かくて 即乾性だという/綿ではなく/カタカナ名の素材のシャツが/息子から届く/ここまできて/やっとその気になって/前開きのひもシャツを/せんたくし さおでかわかして/ていねいに しわをのばしてたたむ/お辞儀をして/可燃物袋に入れる/儀式のように」(終連)

 どの詩のことばもさりげなく書かれているが、詩人はいったいどれほどの時間を要しただろう。ひとりの生活者として真摯に、誠実に「くらし」を暮らすこと。また、ひとりの詩人として柔軟に、清潔に「くらし」を見つめること。ことばは、そのふたつのまなざしがあってこそだとおもう。


福田操恵詩集『ひもシャツ』


詩は、みじかいなかでほんとうのことをいっている、といってくれたのはだれだったか。じぶんの人生もまた、みじかいなかでほんとうのことをいわなければならない。ほんとうのこととは、あるいはなんの意味もなさない詩のようなものかもしれない。わたしという爆弾がどうかおおくのひとにとって意味をなさないように――。


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