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卵を管理する猿

卵を管理する猿(絵・ひがしもとしろう)
(絵・ひがしもとしろう)



 その朝、一匹の猿が台所のテーブルの前で椅子に座っていた。猿は右手にスプーンを持ち、目の高さまで掲げ、そのスプーンの上の卵をじっと見つめていた。彼は、猿を警戒しつつもいつものように冷蔵庫の扉を開け、野菜ジュースの缶を取り出した。冷蔵庫の中の卵が一個減っていた。
 仕事から帰ってきても猿はそのまま台所でじっと卵を見つめていた。彼はコンビニで買った幕の内弁当を温め直し食事に取りかかった。猿は、歴史に組み込まれた一つの出来事のように、あるいは立体的な、前衛的な意匠を施したオブジェのように微動だにしなかった。
 夜が明けても猿はいなくならなかった。あなたは私の家で何をしているのですか? と彼は話しかけてみた。いったい何が目的でこんなことをしているのですか? 猿はなんの反応も示さず、ひたすらスプーンの上の卵を見つめている。彼は試しに猿の手の甲をはたいてみた。猿の手からスプーンが離れ、そのスプーンの先から卵が落ちた。卵はテーブルの上で重力に押しつぶされるようにつぶれ、スプーンは床に落ちて金属質の音を立てた。
 二、三秒スプーンの落下の衝撃の余韻が続いた後、出し抜けに猿が金切り声を上げた。猿は全身の毛を逆立ててテーブルの上に上り、テーブルから冷蔵庫の上へ、冷蔵庫から食器棚の上へ、縦横無尽に移動しながら手当たり次第、物を壊していった。彼は慌てて警察に電話をしたが笑われるばかりでまともに取り合ってもらえなかった。
 静かになってから恐る恐る台所の様子を窺うと、猿はまるで何事もなかったかのように再びテーブルの前でスプーンを掲げ、卵を見つめていた。台所はすっかり荒らされてしまっている。冷蔵庫の扉を開けて卵の数をかぞえるとやはり一個減っていた。
 猿はどうやら少しでも刺激すると狂って暴れ出すらしかった。
 それから数日経って彼は猿を山に捨てる計画を立てた。彼は早速、猿が座っている椅子を持ち上げ、猿を刺激せぬよう慎重に家を出た。車の前でいったん椅子を下ろし、車の助手席のドアを開けて、猿を椅子ごと乗せようとした。しかしそのとき椅子が斜めに傾いてしまい、猿のスプーンの先から卵が落ちた。卵は彼の足もとでぐしゃっとつぶれた。その中から少しずつ黄身が流れ出てきて彼の靴の下に侵入していった。ほどなく猿は例の金切り声を上げ、バネのように飛び跳ねながら家に戻っていった。
 彼はすっかり疲れ果ててしまった。彼はもう猿を放っておくことにした。考えてみると、猿はただ静かにスプーンの上の卵を見つめているだけで、いつ暴れ出すかわからないといった、倒錯した緊張感はあるものの、それを別にすれば直接彼に危害が及ぶことはないのだ。ひと月経つと食卓に猿がいる異様な光景にも慣れてしまった。
 しかし、それですべて解決したわけではなかった。彼が猿を刺激しようが刺激しまいが、猿が突然発狂することがあった。何度も台所を荒らされるので、彼はなるべく猿の目につかないところに物を置くよう心がけた。
 半年ほど経ったころ、彼は街中で見知らぬ女性に声をかけられた。向こうは彼のことを知っているようだったが彼は思い出せなかった。話を聞いてみると、どうやら昔彼と付き合ったことがあるらしかった。
 帰宅してアルバムを見返すと、先ほどの女性と彼が仲良さそうに写っている写真が何枚も出てきた。これまで付き合ったことのある異性の数など知れている。にもかかわらず彼は最初の恋人の顔をすっかり忘れてしまっていたのだ。そういえば、最近物忘れがひどくなったと彼は思い至った。前のことを思い出そうとしてもなかなか思い出せない。仕事のミスも多くなった。まだそんな年でもないのに……。
 ふと視線を感じて顔を上げると、猿が彼を見ていた。これまで一度も彼に関心を寄せることも何かしら表情らしきものを浮かべることもなかった猿が、いやらしいほど赤い歯茎を剥き出して笑っている。そして猿はゆっくりと自らスプーンを傾け、テーブルの上に卵を落とした。その瞬間、彼は激しい眩暈に襲われた。
 猿は何も言わず、暴れることもなく、ただ、にたにたと笑っている。


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