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静けさの復習(100)

静けさの復習(100)
(写真・時本景亮)



 カメラのフラッシュがたてつづけにまたたくなか、ふいに子どものころの記憶がよみがえってきた。子どものころの記憶がよみがえった、といっても、あるいはたったいま、ぼくが無意識的にでっち上げたものかもしれないけれど、けれども子どものころの記憶がよみがえったと思えたのは、なにかしらいいきざしなのかもしれない。
――そう、ぼくが子どものころ。
 と、ぼくはこいびとに向かってほとんど自動的に話しはじめる。そう、ぼくが子どものころ、近所のおじいさんが行方不明になって大騒ぎしたことがあった。おじいさんはあけがた、「ちょっと散歩してくる」といい残してふらりと家をでていったそうだ。畑にいたおばあさんがおじいさんに声をかけたが無反応だったという。連日、町内の防災無線からそのおじいさんの特徴――家をでたときの服装や携帯品、やや認知症の兆候が見えはじめていたことなど――が伝えられた。スピーカーの女性はていねいにひとつひとつ、そのおじいさんの特徴を伝えていったが、そこにはなんの抑揚もなく、ひらべったかった。ぼくは、たちまちこのスピーカーの女性に恋をした。どういうわけかそのスピーカーの女性の声を聞いていると胸が高鳴り、いてもたってもいられなくなった。
 もっとも、ぼくの関心をひいたのは「おじいさんにとって散歩とはなにか」だった。散歩というのは、行って帰ることが大事だ。おじいさんは行ったきりで帰ってこない。それでは散歩にはならない。
 あるいはおじいさんは散歩というよりもただすすむこと、すすみつづけることを選んだのかもしれない。いつまでも立ち止まることなくすすみつづければ、帰ることはもちろん、ここにいることもできない。おじいさんはつまりどこにもいたくなかったのではないかとぼくは推測した。どこかにいれば必ずつきまとうある種の居心地のわるさ、申し訳なさのようなものを忌避するために――。
 ぼくたちの歩行もまた、歩きつづけることでひとに見つけられないよう、世間とかかわらないよう、わが身を守っているのかもしれない。ぼくたちは、だからこそ手をつないで歩きつづけながらもなおもおたがいに孤独なのだ。
 ぼくたちの目的はただひとつ、消失点を見つけることだ。そして消失点の向こうにいくことだ。この歩行のはてにほんとうに消失点を見つけだせるかどうかはわからない。しかしひたすら歩きつづけなければ消失点を見つけることもできない。
 結局、あのおじいさんは発見されることはなかった。すくなくともあのおじいさんが家に帰ってくることはなかった。あのおじいさんはまんまと消失点の向こうへいってしまったのだとぼくは確信している。
 ジーンズのポケットのなかに枯れ葉がはいっていた。ぼくが、プレゼント、といってさしだすと、こいびとはひさしぶりににっこりと笑って、ありがとう、といって受けとってくれた。
 そうか、はじめからこうすればよかったのだとぼくは納得した。はずだった。
   *
――わたし、自由になる。
 バス停のまえでこいびとはいった。ちょうどそこへバスが来た。
――ばいばい。
   *
 バスが遠ざかっていくなかで、ぼくは一呼吸一呼吸、この息の根をたしかめながらも、かすかに安堵感をおぼえた。
(了)



◇最後まで読んでくださり、ありがとうございました。詩と小説の〝あわい〟で物語を奏でることができていれば――そのこころみが、すこしでもつたわっていれば――うれしいです。音楽性のあるうつくしい写真を提供してくださった時本景亮さんにも、感謝です。


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