FC2ブログ

記事一覧

静けさの復習(98)

静けさの復習(98)
(写真・時本景亮)


 ぼくはなおもつよく、せつなくこいびとを抱きしめる。ぼくはぼくを抱きしめるように。そしてこいびともまた、ぼくをつよくせつなく抱きしめる。じぶんでじぶんを抱きしめるように。
 ぼくたちは、ぼくたちを抱きしめる。たった一滴の雨粒のなかに閉じ込められてもいいようにつよく、せつなく。
 おたがいに相手を抱きしめれば抱きしめるほど矛盾が生じることを知っている。知っていながらも抱きしめる。
 もうそれ以上のことはしたくない。もうそれ以外のことを考えたくない。
 あおぞらのあちこちに鳥の影が残っている。鳥はたまに――気に入ったところに気まぐれに――影を残す。そしてそれはアラビア文字のようにうつくしい。
――ひゃ!
 こいびとが奇声を上げた。
――靴がない! わたしの靴!
 こいびとが靴をなくしていた。どうやら先ほどの波にさらわれてしまったようだ。
 しかし、どう見てもこいびとは靴をはいている。右も、左も、ある。
 それなのにこいびとは「靴がない」といってうろたえる。
 しかたなく、ぼくも靴をなくした、ふりをした。こいびとが靴をはいたまま靴を捜すので、ぼくも靴をはいたまま靴を捜す、ふりをする。
――新しい靴を買おう。
 ぼくがそういうと、こいびとは立ち止まり、眉間にしわを寄せて双眸を細めた。
――新しい靴は、いや。
――もう二度と見つからないかもしれない。
――どうしてそう意地悪をいうの?
――靴よりも大切なものはたくさんあるから。
――とにかく捜したいの、捜していたいのよ。
 ぼくはいら立って、
――ぼくたちが記憶を失ったのは都合がいいからだね、きっと。
 と口走ってしまった。
――この都合のよさのために記憶を失ったんだ。
――都合のよさ?
 こいびとは濡れた髪を耳にひっかけながら、
――それをいうなら「事実のよさ」でしょう?
 といった。


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント