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静けさの復習(92)

 まちのあちこち――建物や看板や路上――に、飛び去ったあとの鳥の影が残っていて、ぼくにはそのすべてがカラスのようにしか見えないのだけれど、こいびとにはそのすべてがアラビア文字のようにうつくしいのだそうだ。
(海が見たいね)
(うん、海が見たいね)
 ……考えてみれば、素性の知れない異性に恋をするのも一種の記憶喪失のようなものかもしれない。相手のことをなにも知らないまま――だからこそ、ともいえるが――関心を抱き、また気を引こうとする行為そのものは、記憶を失ったあとの、ただ「ある」状態に近い。ぼくたちは、この、ただ「ある」状態のままひかれあい、恋を謳歌してきたはずだけれど、じぶんたちがもはやなにものなのか、どういった関係性のうえに成り立っているのかがうっすらとわかりはじめたいま、おたがいがおたがいに、ただ「ある」状態のままではいられない、ということに失望をおぼえたのだと、おぼえてしまったのだと思う。
 ぼくはふいに、
――キスしたい。
 といってみた。
 するとこいびとは、すばやくぼくのくちびるにくちびるを重ねてから、
――これはキスでも接吻でもなく、ただのくちすいです。
 といった。
 ぼくは素直に、はい、とこたえたが、「くちすい」ということばにはどこか愛情が感じられない。だけどぼくは素直に、
――これはキスでも接吻でもなく、ただのくちすいですね。
 とくりかえした。
――よろしい、よおくおぼえておいてね。
 こいびとはにっこりと笑った。
(そうだ、これがぼくたちの、ぼくたちなりの終わらせかたなんだ)


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