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ひがしもとしろうさんのこと、あるいは〝ほんとうさ〟の種をめぐって

ひがしもとしろうさんのこと、あるいは〝ほんとうさ〟の種をめぐって(1)
(絵・ひがしもとしろう)


 たとえば、子ども時分になんども読みかえしすみからすみまで知っている(はずの)小説でも、ある日あるときある瞬間、隠されたメッセージ性にはっとして息をのんだり「ああ、そうだったのか!」と腑におちたりすることがある。それはもともとテキスト内にあった種や、そのテキストにふれたことでこぼれた種が、ようやくいま、発芽したのだ。
 ぼくたちは、しらずしらずのうちに〝おもいのほんとうさ〟を胸の奥底におしやったりいつわったりして生きている。恋愛であれ友情であれなんであれ、ほんとうさは、かたくななくせにもろく、ひっこみ思案、切実なくせにいじっぱり。「ほんとうなんてどこにもありはしないんだ」などとうそぶきながらも、他者に指摘されたらすぐに動揺が顔にあらわれる。かといって、それですっかりひらきなおるわけでもない。結局のところ、じぶんでじぶんのなかにある種の存在に気づかなければならない。
 絵にもまた、種があり、ほんとうさがある。そういったものにふれたり気づいたりすることは、とりもなおさずじぶんのなかの〝おもい〟を見つめ、はぐくむことではないか。
 昨年秋に、砂丘のはずれにある瀟洒なカフェではじめてひがしもとしろうさんとお会いし、絵を見せてもらったとき、そこからさまざまな種がぽろろ、ぽろろとこぼれてくるようだった。すぐにこの画家の絵は「ひらかれている」と直感した。
 いちばんの理由は「ひと」の〝おかしみ〟だ。ひがしもとさんの描く「ひと」は、なににも拘束されずどこにも帰属しない。極度に強調された身ぶりや手ぶり、腰つき。大胆でユーモラス、ときには詩的でナイーブ。複雑骨折した難解な多面体の集合のようでありながら、どこか落語のような心理的陰翳(=おかしみ)もある。ただたんに対象を瓦解し再構築するだけではなく、知的に、かつ思索的に――ときにはキュビスム的な多視点、身体の複数化をはかりながら――画面に神話的・寓意的秩序をもたらす。そのなかで「ひと」たちは泣き、叫び、笑いさざめき、踊り狂う。すこやかに、はれやかに、〝ほんとうさ〟の種をまきちらす。ひらかれているというのは、つまりそういうことだ。
 観れば観るほどひかれる絵ばかりだった。ありとあらゆる解釈が生まれ、そのたびに種が発芽する。なんていうか、海面にうかんだ、ちらばってしまった難破船の破片をひろいあつめているような、そんな摩訶不思議な感覚があった。
 文学もそうだけれど、無理に読もうとすればするほど、読めない。かえって視線はじぶんに突き刺さり、血液のながれがわるくなってしまう。精神に致命的な凪がくる。
 大事なのは、やはり、作品を見つめつづけること、そのときそのとき、その瞬間瞬間の「読みの複数性」を生きることだとおもう。読むことは画家の意図をくんだり翻訳したりすることではない、読むことは、ほかのだれでもないじぶんだけの造形言語を生みだすことである。
 ほんとうのおもいはじぶんのなかにしかない、そしてじぶん以外のだれにもわからない。しかし、だからこそ、小説を読んだり絵を観たりしておおくの〝おもいのほんとうさ〟にふれなければ、じぶんじしんの精神性の高さや深さ、奥行きにもふれられないし、じぶんのことばを――〝おもいのほんとうさ〟をいいあらわすことばを――もてない(そう、ことばをもつことは、ほんとうにむつかしいことなのだ)。
 ここにはさきまわりして待ってくれている種があるのだと、いつか「ああ、そうだったのか!」と気づかせてくれるなにかがあるのだと、そう信じるに足る作品と出合うよろこびは、なににもかえがたい。
 ぼくにとって、ひがしもとしろうさんは、そういった位置づけの画家である。


ひがしもとしろうさんのこと、あるいは〝ほんとうさ〟の種をめぐって(2)


ひがしもとしろうさんのこと、あるいは〝ほんとうさ〟の種をめぐって(3)


◇ちなみに、十一月にひがしもとさんと二人展をする予定でいます。まだ具体的には決めていないのですが、ことばと絵が輻輳し交錯することで、読みの幅や奥行き、ずれ具合などをたのしんでもらえるような、そんなひとときになればとおもっています。




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