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静けさの復習(76)

静けさの復習(76)(写真・時本景亮さん)
(写真・時本景亮)


 入院初日の夜、病室のベッドのうえからまちの様子をぼんやりと眺めていると、なんだか非常に心細くなった。前方からもすぐとなりからもかすかに寝息が聞こえるが、気にはならない。むしろ近くにひとがいることにいいしれぬ安堵感があった。ぼくは、じぶんがずいぶんと長いあいだ、世間から遠ざかっていたことに気づいた。ぼくたちはひととかかわらずにはいられない。どうしてもじぶんのみのわがままを貫きとおすことは不可能なのだ。いくらひとに見られたくない、世間から切りはなされたいと願っても、むだだ。たとえば、隠遁。どんなに未開の森を探しあててそこで自給自足しても、ひとからのがれることはできない。隠遁、という発想そのものが、この世界にひとがいるから、世間があるからこそ生まれるものだ。ひとも世間もなければ、そもそも隠遁なんてことはありえない。ひとから、世間からのがれることも、ひとや世間をつよく意識する行為なんだ。
 そうだ、とぼくは思う。そうだ、そうなんだ! ぼくはこいびととともに記憶を失ったとき、心のどこかではラッキーだと思っていた。これでぼくは自由だ、しばらくは世間とかかわらなくていいと。
 しかし、いま病気をしてみて、やはり世間からのがれることはできないと痛感する。世間からのがれるためにはもう幽体離脱しかないが、たぶんきっとそんな現象は訪れないだろう。
 記憶を失うこと自体はあるいはぜんぜん問題ではないのかもしれない。もっとも問題なのは、記憶を失うことが、痛みをともなうものではないということだ。なるほど、記憶喪失は難聴と同じなのだ。
 だれにも気づいてもらえないし、わかってもらえない。しかし確実に、決定的に負傷者であること。


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