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汽水空港リニューアルオープン

 はじめて汽水空港にいったのはたしか二〇一五年十二月だったとおもう。ぼくはちょうどそのころ紀田順一郎さんや岡崎武志さん、内堀弘さんなどの古本的エッセイを読みあさっていたし、鳥取市内に邯鄲堂という玄妙な味わいの古本屋があったこともあり、古本熱が最高潮に達していた。だからネットか新聞かなにかで「東郷池のほとりにも古本屋ができた。しかも店主がいちから建てた店らしい」と知って、ぼくのおなかのなかに住まう回虫っぽい紙魚っぽい古本的寄生虫が「古本万歳!」だとか「早く古本のにおいを嗅がせろ!」だとか「もしいかなければおまえを殺す」だとか、あれこれとのたまいつつのたうちまわるものだから――腹痛を起こしたり高熱にうなされたりしないためにも――いかないわけにはいかなかった。


汽水空港(1)


 汽水空港はなかなか見つからなかった。松崎駅の近くでひとにたずねても、このへんに古本屋などないときっぱりといわれ、とほうにくれてしまった。
 それでもなんどもその周辺をいったりきたりしているうちに一軒、たいやき屋のようなちいさなお店があった。無性にたいやきを食べたくなった。おなかのなかではなおも古本的寄生虫がブーブーいっているが、古本どころではない、ぼくはたいやきを食べたくて食べたくてしかたがなかった。だからいっしょにきた友人に「たいやき食べよう」と告げて、そのお店に足を踏み入れたのだ。
 すると、そこが汽水空港だった。眼前には夢のように本がずらっとならんでいて、音楽もかかっていた。どことなく、むかしなつかしい――小学校の教室のかたすみにあったような――ストーブもあった。
 「こんにちはー」だったか「どうもー」だったかわすれたが、うえ(ロフト)からのんびりした声がふってきた。見上げるとニット帽をかぶった長髪の男性が、本を片手に寝ころがったまま、ぺこりと頭をさげた。
「うえから、すみません」
 と、かれはいった。
「ここ、たいやき屋だとおもって」
 とぼくがいうと、
「……たいやき屋」
 かれはぼそりとつぶやいた。
 かれ――すなわち店主のモリテツヤさんであった。
   *
 基本的には古本屋ではあるものの、リトルプレスも新刊もCDあり、おもちゃもあった(コーヒーは「目下修行中」とのこと)。入口付近の休憩スペースからは東郷池がのぞめて、頭上にはなにやら詩人の詩がかかげられていた。
 モリさんがお茶を淹れてくれた。「おいしいです」というと、モリさんはしずかに相好をくずした。すぐ近くにあった栗原康著『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(二〇一三年、夜光社刊)を指さして、「これ、読みましたよ。この作家の文体、心地いいですよね」というと、モリさんはますますしずかに相好をくずした。この店主をもっと、もっとよろこばせたいとおもったぼくは、いかにじぶんは古本が好きかとか、古本屋はちいさな宇宙だとか、宇宙といえば俳句だとか、俳句のなかにも宇宙があるとか、そもそもなんであれ定型(=社会)からにじみでるもの、はみでようとするそのこころみこそ宇宙的行為(=カウンター)だとか、まあ、そんなふうにただたんにおもいついたことをいっているうちに、じぶんでもなにがいいたいのかよくわからなくなってしまい、頭のなかでからまった糸をほぐしながら、舌のうえでごにょごにょいいながら、とりあえず本を何冊か購ったのだった。


汽水空港(2)


 二〇一六年十月二十一日十四時七分ごろ、鳥取県中部地震が発生した。東部でもはげしいゆれを感じた。ぼくはそのとき二階部屋にいたのだけれど、胸がざわつくほどのゆれだった。震源が中部だとわかり、ツイッターで汽水空港モリさんのツイートをチェックした。はでにやられていた。
   *
 あれから一年と九か月――。汽水空港の物語がまたはじまった。
 開店二日め(七月二十二日。ちょうど湯梨浜町一大イベント「水郷祭」開催日だった)、いそいそとひとの波をかきわけながら開店祝いの駄菓子のつめあわせをもっていくと、はじめてお会いしたときとまったくかわらないモリさんの笑顔が、あった。となりには小柄でかわいらしい奥さんもいた。
 店内にはいるなり、「おお!」と快哉をさけんだ。手づくり感あふれる棚や棚や棚……。ジャズっぽい音楽がながれていて、エアコンは二台もある。踏み台も椅子もある。頭上には当然のようにロフトもある。裸電球がたれさがっている。花が活けられている。どきどき、というか、わくわく、というか、もう「わくどき」の空間だ。
 二年まえ、よくここにきていたころもおもっていたことだが、モリさんの人文書の選びかた、ならべかたのセンスはすばらしい。地元の新刊書店の人文書棚とくらべてもなんら遜色がない。いや、遜色があるないどころか、飛びぬけている。逸脱している。もっといえば、人文書が実用書や自然科学の読みものをつなぐ役割を担っているようでもあった。
 ぼくはこのごろ、「あいだ/あわい」とか「すきま」というものにつよくひかれている。「あいだ」「すきま」というのはそれじたい、〝座〟であり、〝座〟になりうるなにかである。本をあつかう店の店主は、本とひととの「あいだ」にある存在だが、その存在じたい、〝座〟であり、〝座的〟である、とはいえないだろうか(……こんなふうに考えると、ひとをひきつけてやまないモリさんの人柄や魅力がいったいどういった立ち位置や性質によるものか、すこしだけ、わかるような気がするのだ)。
 本棚もまた〝座〟であり、〝座的〟である。とりわけ汽水空港の棚はいい。棚で本を見/魅せる本屋といったらふしぎがられるだろうか、ぼくは今回、直感的に「本以上に棚が主役だ」「これこそ汽水空港の目玉であり面目だろう」などとおもった。つねに文脈の書きかえ可能な本の〝ならび〟を――ときには妍(けん)を競いあい、たがいに影響しあう本の〝ならび〟を――「図」としても「面」としても見/魅せられる。あるいは「地」から「座」へ、「座」から「地」へ、変幻自在、融通無碍だ。
 これからモリさんは感性の鍬で本棚をどう耕し、本のたねをまくのだろう? そしてお客さんはそこからどんな収穫物を掘り起こすのか。興味はつきない。
 いや、なにも棚でなくてもいいのだ、空間そのものの居心地よさでもいいし、モリさんたちに会いたいから会いにいくのでもいい。おとずれるひとひとりひとりが〝偏愛〟を見いだし、はぐくむのがいちばんだ。
 店内で買われたり売られたりしながら嬉々として離着陸しつづける本たち。そんな本の旅立ちを――本とひととの出合いを――そっと後押しする棚たち。いつか爆音に近いパンク・ロックとともに汽水空港そのものが見果てぬ空へ飛びたっていきそうだ。
 ここにいながら、どこへでもいってしまいそうな、そんな夢と希望とロマンのあるスーパー宇宙的・古本的空港から今後、目がはなせない。


汽水空港(3)


◇書店「汽水空港」鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎。松崎駅から徒歩五分。


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