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花房睦子さんの詩「寂寥」(詩誌『菱』202号)を読む

  静かな 手塗りのペンキに
  ポストは しん と息を止める
  瞬間 ポッ……トン
  赤い滴 二つ
  咄嗟に 記憶の中の扉が開(あ)いた
  木造校舎の
  放課後のお手洗い(一連)

 この詩のはじまりにふれ、はっと息をのんだ。一瞬、呼吸をわすれてしまった。これはぼくの勝手な推測だが、刷毛でわが家の郵便ポストを塗りかえた瞬間(あるいはほんのすこしはげたところを塗りなおしただけかもしれない。とにかく「手塗りのペンキ」という表現が効果的だ)、「ポッ……トン」と「赤い滴」がふたつ落ちる。赤が赤を染める。いのちがいのちをうけとめる。なんという鮮烈な、かつ痛切なイメージだろう。

   生徒が一人
   赤いペンキ落として去(い)った

  黒板は午後の授業
  保健/体育
  ペンキの正体も習った
  それはひっそりと語る
  血液の声紋
  海の底から 十七才の日に
  やって来たしるしを
  お客さんと呼び
  赤飯でもてなした母も
  唯一の祝意も
  もう やっては来ない

   「来る」
   「来ない」(二~四連)

 読者は、詩人のことば/記憶とともに「木造校舎の/放課後のお手洗い」につれていかれ、生徒が落としていった――それは過去にうしなった〝もうひとりのわたし〟かもしれない――「赤いペンキ」を目撃してしまう。赤いペンキは「血液の声紋」であり、「海の底から」「やって来たしるし」である。「赤飯でもてなした母」の面影もよみがえる。
 四連めの「来る」「来ない」というのは、あるいは刻一刻と迫りくる刻(とき)との対話のようでもある。
 子どものころに違和だったものが、昼をこえ、夜をこえ、すこしずつからだになじみ、「生」になじむ。ひとはつねに〝いたみ〟や〝かなしみ〟によって生き生かされているが、他者を生かすのもまた〝いたみ〟や〝かなしみ〟でしかないことを知っている。だから詩人は、いのちとはなにか、ことばとはなにかと、詩をとおしてぼくたち読み手のこころにゆさぶりをかけてくるのだ。
 とはいえ、詩人の〝もちまえ〟はここからだ。

  ひとの世の出入口は
  対の狭間にひっ掛かったまま。
  うっすらとあずき色に染まる
  空や森が
  閑けさに呼応して
  私をただ 寂しくさせる(五連/最終連)

 半世紀にわたって「来る」「来ない」をくりかえしていたものが、いつのまにかうしなってしまっていたものが、ようやくいま、郵便ポストにかえってきたのだ。もっといえば、自己ではなく他者の〝いたみ〟や〝かなしみ〟、〝さびしさ〟をもともなって、詩人のもとに返信されたのだ。
 赤い滴。それは詩人にとっていったいどんな〝いたみ〟や〝かなしみ〟、〝さびしさ〟だろう。それはもはや自身をさいなんだり責めたてたりするものではないはずだ、それはきっと、詩人の精神の深みに〝あった〟ものにちがいない(もともとあったものが、あったことを知らせにきた、のかもしれない)。
 花房睦子さんは、〝いのちを見つめる詩人〟だとおもう。いのちから目をそらさない。なぜなら、いのちとは、ことばだからだ。
 そう、いのちとは、ことばだ。いのちを書き、ことばを生きること――それこそ、詩を書くということだ。
 漕げども漕げどもいっかなまえへすすまない状態は、なんども人生におとずれる。どんなに誠実に生きていてもおもったとおりにいかない。それどころか齟齬が生じ、軋轢がはいる。やることなすことすべて裏目にでてしまう。もう生きていたくない……いっそこのままここからいなくなってしまいたい……。
 しかし、そういった行き場も居場所もうしなったかのようなどんづまり/宙づりのなかでも、詩人はきっと、いのちを書き、ことばを生きるのをやめなかっただろう。
 じぶんを抱きしめることのできない人間が、他者を抱きしめることなどできるだろうかと、そんなふうに詩人は詩をとおして語りかけ、ほほえみかけてくるようだ。

   「来る」
   「来ない」

 それは、あるいは孤独との対話でもある。刻(とき)にたえ、孤独にたえることでしか見えてこないいのちの輝きもあるだろう。
 一篇でもいい、一行でもいい、詩人の詩にふれることで、じぶんをぎゅっと、こころからいとおしく、せつなく抱きしめられる一瞬があれば、ぜひそのことを詩人につたえてほしいとおもう。
 花房さんだけではない、おおくの詩人はきっと、そういった〝あなたの声〟をききたいのだ。




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