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静けさの復習(60)

静けさの復習(60)(写真・時本景亮さん)
(写真・時本景亮)


 記憶をなくすことと、影をなくすことでは、はたしてどちらが恐怖だろう。こんなふうに記憶をなくすこともあるのだから、じぶんの影に裏切られたり見限られたりすることだってなきにしもあらずだ。
 記憶をなくしてもぼくはまだ発狂していない。でも、影がいなくなったら正気ではいられないような、そんな気がする。
 もしかしたら居場所というのも関係しているのかもしれない。
 ぼくたちの居場所はまだ、「ある」とはいえない。でも、だからといって、「ない」わけではない。
 歩行もまた、「ある」とも「ない」ともいえない、途方もない行為だ。いつまでも見えない矢印に向かって歩かされている。ただひたすら月や太陽の思いどおりに歩かされている。歩けば歩くほど、この歩行性をみずから保証することはできない、という危機感や焦燥感が芽生えてはいるものの、でも、だからといって、いますぐ立ち止まる勇気ももてない。
 でも、だからといって――そう、いつもそればかりだ。たぶんきっと、ぼくたちが車に轢かれたのも、こんなふうにえんえんと困惑したり逡巡したりしていたせいだろう。
 このまちは、どうもいびつだ。いびつであることはよくわかる。しかし、なにがいびつなのか、なぜこんなにもいびつなのかがふたしかだった。いびつはいびつのまま、そのまま変わろうとしているところもあるし、いびつはいびつのまま、そのまま変わらずにすまそうとしているところもある。いびつであることに無自覚であるところもある。ありとあらゆる種類のいびつさが、ひとつの不寛容の生きものとして、その傲慢さを誇示しているように思う。
 たとえば電線。地面には電線の影が風にゆれている。そこから視線を上げると、空中では電線そのものが風にゆれている。電線と影、そのふたつのゆれは決定的にちがう、ちがうものだ。
 しかし、どこがどうちがうのかわからない。いくら考えてもわからない。
 ただひとつだけわかっているのは、まちがいなくこの世界には彼岸と此岸があるということ。ぼくたちはだれもが亡霊予備軍であるということ。
――ところでさ。
 ぼくはこいびとに相談をもちかける。
――幽霊と亡霊って、どこがどうちがうんだろう?
 こいびとはコンビニのおにぎりの包装フィルムをていねいに開封しながら、
――幽霊って、ひとの名残のようなものでしょう。
 という。
――ひとの名残?
――ほら、足がないだけで。
 こいびとは片手におにぎりをもったまま、「うらめしや」のポーズをした。ぜんぜんこわくない。
 ぼくは思わず吹きだした。
――じゃあ亡霊は?
――亡霊は……人魂っていうくらいだから、魂か、魂の名残のようなものでしょう。
――そうか、ひとが黙っていれば、そのうち人魂になるのかも。
――そうそう、幽霊ってしゃべるじゃない。でも亡霊はことばを忘れているからしゃべらないし、しゃべれない。
――亡霊になるには幽霊よりもずっと時間がかかるね。
――うん……ひとの名残をなくすには、すくなくとも千年はかかるんじゃないかな。
――だったら平安時代の、ほとんどのひとは亡霊だね。
――亡霊になるには、なかなかむつかしいのよ。
 こいびとは、なぜか知ったふうな、得意そうな笑みを浮かべて、おにぎりに食らいついた。
 まずは幽霊だ、幽霊からはじめよう、とぼくは思った。それからクラゲへ。沖へ。月へ。


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