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上手宰さん詩集『しおり紐のしまい方』を読む

 上手宰さんの新詩集が届いたときはうれしかった。ああ、ぼくのことをおぼえてくださっていたのだと、腹の底からよろこびとともに熱いものがこみあげてきた。早速、転がりこむように二階部屋へいき、スマートレターから詩集をとりだした。なんていえばいいのだろう、詩人の感受性がありとあらゆる〝ことば〟にさいなまれているかのような、そしてそれに詩人はけんめいにたえているかのような、そんなすごみのある装丁に、はっと息をのんだ(……もしかしたら誤解をまねくようないいまわしかもしれない。しかし、ぼくにはそれは、ほんものの詩人にとって〝どうしてもたえなければならない痛み〟のようにおもえるのだ)。
 詩集の感想を書くまえにすこしだけいっておきたいことがある。ぼくが『詩と思想』という詩の雑誌に投稿をはじめたのは、いまから八年まえ、二〇一〇年の終わりごろだった。三年間ずっと――読者投稿欄の「年間優秀作品」に選ばれるまで――毎月詩を三篇書いては送りつづけたのだが、そのうちの一年間、選者のひとりとしてぼくの詩を読んでくださったのが上手さんだった、というわけだ。
 投稿者と選者という関係を終えてから、ぼくは上手さんに手紙を書いたことがある。詩人として活動するにはどうすればいいか、おききしたかったのだ。すぐに返事をいただいた。抑制された筆致で、同人誌にはいることだと、書かれていた(ぼくはやがて岡山の詩誌『ネビューラ』にはいった。いまは高知の詩誌『space』に参加している)。ことばのはしばしに、若く、いたらないぼくをおもうまなざしがあった。
 上手さんのまなざしは、ひとをおもうことのできるまなざしだ。ひとをおもい、いのちをおもう……おもうことで、詩人はみずからのまなざしを編み、ことばを、詩を編むのかもしれない。

  しおり紐の付いた本は
  疲れたらどこでも休みなさいと
  木陰をもつ森のようだ

  車中であっても 自室であっても
  本を閉じるときはいつも 突然くる
  何かの理由で顔を上げ その世界をまたいで出る

  少し待っておいで すぐに戻ってくるから
  そのまま二度と姿を現さなくても
  挟まれた紐は 永遠にその場で待ち続けている

  隠れんぼをする子は忘れられたかと思う
  探しにきてほしいのは自分ではなく
  息をひそめていると光り始める その場所だったが

  いつも途方にくれるのが
  読み終わってしまった時の
  しおり紐のしまい方である

  そこから先に行くべき道は消え
  目印のやわらかい杭も
  もういらなくなったのだ

  足の出ぬよう丸くされて
  どこでもよいページで眠りにつかされる
  暗がりで目をつぶっている胎児のように

  人の一生は長い時間をかけて
  書き上げられる 一冊の本だと
  みんなが言うのを信じかけていた私だった

  そうではなかった
  自分の物語を読み終えたとき 生は閉じられる
  ほかの誰も読みえない私だけの物語だった

  その日 私と言葉たちがそこから出て行くと
  何もかもが消えた 白いページの中で
  しおり紐は 見慣れぬ不思議な文字になる(「しおり紐のしまい方」全文)

 本詩集には、詩集名にそうっとよりそうように、赤いしおり紐がついている。いのちそのものだ、とぼくはおもう(だから、いのちのしまい方、というふうにもとれる)。
 本が人生だとすれば、しおり紐はいのちではないか。人生がいままさについえようとするとき、いったいこのいのちをどこにはさめばいいのか。あれこれとまよい、悩んでいるうちに、「私」は多くのことばたちとともに――なかば強制的に、落ち葉のように――本の外へつれていかれてしまう。空白のページのすきまに残ったいのちは、「し」のような、あるいは〝なみだ〟のような、ふしぎな文字になっている……。
 ぼくがこの詩を読んでおもったのは、いのちをどのページにはさむかはさほど問題ではない、ということだ。見てきた季節も、おもいでも、「私」とともにいともたやすくつれさられてしまうのであれば、せめてしおり紐のしまい方だけは――いのちのかたちだけは――ちゃんとしておきたい。どっちみち宙吊りになるのだからと自暴自棄になってはいけない、じぶんにとってもっともいいかたちをさがさなければいけないのだと。
 もちろん、いのちのかたちといっても、一朝一夕に身につくものではない。一日いちにち、そのときそのとき、納得のいく選択をしていくこと、真摯に誠実に生きていくことでしか形成されないものだとおもう。肝心なのは、どうありたいかだ。
 じぶんを見つめなおす、いいきっかけをいただいた。



上手宰さん詩集『しおり紐のしまい方』




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