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静けさの復習(9)

静けさの復習(9)(写真・時本景亮さん)
(写真・時本景亮)



 でもぼくたちはどちらからともなく立ち上がった。復活のファンファーレ。歓声。おたがいがおたがいを点検する。こいびとはぼくの服の汚れを払い、ぼくはこいびとの服の汚れを払った。おたがい無傷だった。無傷のファンファーレ。歓声。口笛。
 野次馬たちはなぜか肩を落としたり首をひねったりしながら三々五々散らばっていった。
 すぐそばの電線にカラスが一羽止まっている。そのカラスは、あまりにもカラス然としていて不気味だった。どこがどうとはいえないが、あまりにもカラスらしくて、かえって模造品のようだと思った。ぼくの予感は的中したのだろうか、ぼくがじっと見つめていると、そのカラスは一声も発することなく、羽根ひとつ落とすことなく、あまりにもなめらかに飛び立っていった(ほんとうに、あまりにもなめらかに)。
 きっとあのカラスは残飯なんていう品のないものはあさらないだろう、あさるとすればもっといいものをあさるんだろうとぼくは直観した。九相図、とぼくはひとりごちた。
 こいびとはこいびとでなにやらぶつぶついっている。……なにか大事なことを忘れてる。でも、なんだろう。思いだせない……。そんなことをつぶやいている。無事でよかったねと、ぼくが話しかけても返事はない。
――ねえ、たとえば自分の名前、いえる?
――あっ、いえない。
 必死に名前を思いだそうとするものの、「ひこばえ」とか「うつせみ」とか「あめんぼう」とか「かねたたき」とか「ゆどうふ」とか、なにやら俳句の季語じみたことばしか浮かんでこない。
――きみは?
――わたしもだめ。わからない。
――じゃあこれは記憶喪失だ。
――おたがい、同時に?
――うん。おたがい、同時に。
――こんなことってある?
――現にいま、あるから、あるんじゃないかな。
――じゃあ反対に、忘れていないことって、なんだと思う?
 こいびとのこのことばには、ぼくは笑ってこうこたえた。
――愛だよ。ぼくは相変わらずいまも、きみのことが好きだ。
 と。




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