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静けさの復習(7)

 こいびとは平気で信号無視をする。
 轢かれるよ! ぼくはあわてて大声で、こいびとの背中に呼びかける。呼びかけながら、追いかけた。
 こいびとは、空を見上げたまま、からからと笑い声をたてて、このまちに信号なんてないよ、とうそぶく。
 このまちに信号なんてないよ、と――。
 横断歩道のなかほどで、ぼくがこいびとの手首をつかんだ瞬間、車のクラクションが聞こえた。けたたましいクラクションだった。あまりにもけたたましいものだから、脳裏に「喧」という字が浮かんだ。「喧嘩」の〝喧〟、「喧噪」の〝喧〟だ。しかし、すぐに「けたたましい」ということばには漢字がないことに気づいた。けたたましいは〝喧ましい〟ではないのだ、ああ残念……そのあとの記憶はない。ぜんぜん、ない。死んだかと思った。
 死んだかと思った、ということは、まだ生きているということか、と思い直した。こいびとの手首にもぬくもりがあった。アスファルトもほのかにあたたかい。風が吹いた気配はないが、なぜか葉ずれの音が耳に心地いい。あるいは周囲にひとが集まってきていて話し声とか靴音とかがまざりあっているだけなのかもしれない。だれか救急車を呼んでくれるだろうか。そもそも救急車を呼ぶという行動を選べるひとはいるだろうか(全員が「監視の目」だったらいやだな)。
 ひとも木も風も、なにもかも監視されているのだから、来てほしくないときに車が来てしまうことだってある。ぼくたちにとっては「運がわるい」だけのことかもしれないが、このまちにとっては「予想どおり」というか「計算どおり」というか……。敗北のファンファーレ。歓声。


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