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村のくらし

 だれかが玄関先に野菜を置いてくれている(たまにオロナミンCや未開封のさきイカ、園芸用の手袋など……)。
 野菜を包んだ新聞はしっとりと濡れていて、新聞そのものが〝まごころのかたち〟になっている。たまたま大谷翔平選手がメジャーリーグで活躍しているところが映しだされている。
 祖母には、この野菜の持ち主がわかるという。「なんちゅうことだあ。早いこと、電話でお礼をいわなければ……」
 むろん、ぼくにはわからない。
 ぼくにはどうもまだ、この村のくらしのしくみを、はかりそこねているふしがある。まあ、こんなものかと、すずしく受け入れることができない。かといって、べつにどこかへいきたいわけでもない。
 村、というのも、くらし、というのも、どこか「ぼく」の外部にある。こういったものは、そっくりそのまま「ぼく」の一部であり、つねに「ぼく」とともにあるものとしてわりきってしまえるほどの度量がない、のかもしれない。

〈人間とは主に創造に従事する動物であり、目的に向って意識的に邁進し、技術にたずさわること、つまり永遠に休みなく自らの道を、その道がどこへ向うものであれ切り拓いてゆくように運命づけられているものだ。そのことには俺も反対しない。しかしひょっとすると、まさにこのように道を切り拓くことを運命づけられているからこそ、人間は時としてひょいと脇道に逸れたくなるのかもしれない。〉(ドストエフスキー著、安岡治子訳「地下室の手記」、光文社古典新訳文庫、六十六ページ)

 なぜか最近、ずっとその箇所を読みかえしている。読みかえすというか、そのページのみを破って――まるでお守りのように――ジーンズのポケットに入れている(ちなみに「どこへ向うものであれ」、そこには傍点がつけられ強調されている。ひとは、やはり〝避けがたい惨事をまねくしかない〟のだろうか?)。
 ぼくにとって、村でのくらしは、そこから逸れたい気持ちがあるのだということを、みずから肯定も否定もせず保留にしてしまっていることこそ、いま目のまえにある野菜にたいする無関心さ、につながっている〝ささやかな惨事〟だとおもう。
 この野菜も、新聞も、ぼくも、過程のひとつではなく、過程そのものであるのならば、無関心さなど、ぜったいにありえない。
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