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植樹(写真・時本景亮さん)

植樹(写真・時本景亮さん)



私は私の体には木を植えなかった。しかし妻
は自分の右肩に木を植えた。どうしてそこを
選んだのだ? と訊くと、ゆずり葉の音色を
味わいたいからよと返された。
まだゆずり葉だと決まったわけじゃないだろ
う?
いつもあなたはそうやってあたしを苦しめる
んだわ。
狼なのか野犬なのかわからぬが外で獣の気配
が立ち上っている。空き家に寄生した空き家
が彼らを呼んでいる。青白い月の光に照らさ
れたハグロトンボの羽が舞い上がるのを私た
ちは静かに見つめる。私たちはまだ安全だ。
今はたしかにあるかい?
たしかなのは明日だけよ。
昨日はなにをしていたのだろう?
何度も振り向くうちに今日になったのよ。
ふと祖父母の家の庭を思い出す。季節の貧し
いところだった。底冷えから抜け出せぬとこ
ろだった。しかしあたりには記憶の遡上する
心地よさがたゆたっていて、決まって石臼の
陰から祖父母が顔をのぞかせるのだった。
天井の低い夜空。海底の沈没船。田んぼの畦
の草花。煙草を失った肺腑。身を削ぐばかり
の絹織物。私たちが蒐集したものはいったい
なんだったのか、よくわからない。
駅から逃亡した自転車を匿い、
脱皮をつづける硝子の表面を慰め、
酔っ払った死刑囚の手記を書き写す。
それが私たちの日常だった。はずだ。
木を植えようと言ったのは私で、右肩に木を
植えたのは妻である。私たちの会話を聞く者
がいたとしたら、はたしてどちらにつくだろ
う。あるいはどちらを非難するだろう。
しっかり育つだろうか?
はい、明け方までには。
私は食卓を迂回して妻のところに行く。
そして私たちは苔のように抱き合う。


(「詩と思想」読者投稿欄入選作品)


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